8月2012

瓜田に履を入れず、李下に冠をたださず

生活

 立秋をすぎると空の色が変わる。さらに、8月も半ばを過ぎると流れる雲のかたちや風の向きが、確実に変わり始める。しかし、ここのところの季節の移り変わりは、大味な感じで、季節を彩る二十四小節は、めりはりが無く感慨を持つことなく逝ってしまう。温暖化というまでもなく、生命体としての地球の呼吸自体が弱まっているように感じられてならない。

さて、夏から秋かけては、野菜が一番おいしい季節である。

まず、さまざまな産地からたくさんの種類の野菜が市場を彩る。野菜の成長も目に見えて大きくなる季節なので、量(かさ)があるわりに安く買える。なんといっても生で食べられる野菜の種類が豊富である。とはいえ、収穫量を安定させるためか、露地栽培の野菜は少なくなり、ビニールハウス栽培の野菜が主力となると、おいしい野菜それぞれの旬がいつなのかわらなくなってはいるが。



瓜は、南瓜や冬瓜(とうがん)などをあげるまでもなく、季語に使われるように季節そのものの実りでもある。

その昔、高貴な方々は、避暑と実益を兼ねて「瓜見」なる行楽をしていた。

京都の桂離宮は、八条宮智仁親王の定めた別荘地であるが、瓜の産地ということもあり、瓜見に出かけられて桂の地がたいそう気に入られたらしい。

ここ数年、瓜やさくらんぼなどをはじめとする高級果実など組織だった盗難事件の報道が後を絶たない。やり口は、これらを商うことを専門にしている者にしかわからないようなやり方だといわれる。専門の人間ならば、農家の苦労もよくよく承知しているだろうと嫌気と脱力感が襲う。

それら忌嫌の空気は、今や政治家や官僚、地方公務員にまで蔓延している。相手の批判やこきおろしはお手のものだが、出処進退、つまり身の処し方がわからないのだ。特に、陳謝の仕方や退き方がわからないようにみえる。

いまや死語なのかもしれないが、「不徳のいたすところ」を理由に身を退くなどという話を聞かない。事実に照らし疑われたことが心外でも、疑われたこと自体が不徳なのだという身の処し方は実に清い。疑いを晴らすのは、第三者や裁判所、警察に任せればよいという考えである。「瓜田に履を入れず」「李下に冠をたださず」ということばも死語なのだろうか。「疑われないように、瓜の栽培されたところに自ら足を入れてはならない。李の下で冠をただしてはならない。」というのは、能動的行動規範に違いない。「罪に問われなければ何をしてもいい。有罪になっても、減刑を勝ち取ればいい」などというのは、全くもって品性に欠ける。回復が困難なほど、地球環境の破壊もひどいが、人の心の中の荒廃も歴史に名を残した碩学たちの言葉をしても埋めがたいものがある。

(鹿)