9月2012

地方だからこそできる国際協力

生活

「国際交流」や「国際協力」と聞いて、国と国のお付き合いだから、中央にお任せしておけばよいとお考えの方が意外に多いことに気がつく。確かに行政機構上の問題もあり、中央がお付き合いの方向性を示したり、専門家の養成や調整員の派遣を行うことは多い。しかしながら、「国際協力の実態」を精査すると地方の支える「国際協力の形」や「国際協力の可能性」が見えてくる。



ところで、ジャーナリストの嶌信彦氏をご存知だろうか?

氏は、日本でもっとも活躍しているジャーナリストのひとりにして大学教授

である。素晴らしい見識や豊かな人間性で人々を魅了してやまない人である。氏は、NPO法人の日本ウズベキスタン協会の会長をつとめこられた。小職は、同協会の方に請われてウズベキスタン国からの留学生の日本受け入れのお手伝いをした事がある。小職は、北海道の大学への受け入れ~生活支援や地域との交流や日本文化を学ぶ環境を整える~を担当させていただいた。小職の出身は、もともと九州なので、出身大学や恩師などのご支援をいただきながら受け入れ環境を整えようと図った。その時に、氏を囲み打ち合わせをしながら食事をした際、示された見識になるほどと思うことがあった。

氏は、旧ソビエト連邦の諸国からの留学生は、特に「北海道」で学ぶ事が「財産」になるとした。それは北海道が、単に寒冷地として留学生たちの出身国と共通性があるとか、北海道に祖国での生産に適する農作物が多く、学ぶものがあるとかしたのではない。

 

氏の示された見識は以下のように要約できる。

「北海道」は、本格的に開発されて百年あまり。北半球の途上国にとって、数百年も前から開発されてきた都市の事例から、参考になる事例を見つけることは難しいかも知れない。しかし、ほんの百年前に作られた事例がふんだんにあり、インフラ投資の手順や財政の手当て、維持管理手法など途上国からみれば

学ぼうとすれば、宝の山状態であるというものである。また、旧ソビエト連邦諸国の留学生にとっても、他の地域より圧倒的にロシア語を話せる人や歴史や地理に詳しい人々がいるので、北海道全体が学びの場所になるというようなことであった。環境保護や国土開発など広範囲にわたって学べるということであった。

氏の示された見識に従えば、日本の地方のあちらこちらで、途上国の手本、宝の山をいくらでも見つけることが出来るのではないだろうか?

・ 「小国」ながら自然が豊かで「観光立国」を目指そうとする国。

・    「島嶼国」ながら、その地理的な特性を活かして「貿易立国」を目指そうとする国。

・    「資源に恵まれない国」ながら教育レベルや文化水準の高い国。

・    「経済開発」は遅れているが、穀物生産国として可能性がある国。

いくらでも、日本の地域と結びつけて、世界的なパートナーシップを組めそうな事例がある。

 

小職は、普段から海外から日本留学について問合せを良く受ける。

その時は、できるだけ「地方」の大学に留学することを勧めている。

なかには、アルバイトが見つかりにくいと主張する学生もいるが、時間給が安くても物価安いので、あまりハンデイにならないということにしている。

小職が、地方に留学することを勧めるのは、特に以下のことがあるからである。地方によっては、閉鎖性があって外国からの客人に距離を保とうとするところがあるかもしれない。しかし、概して地方の人々は親切であるという点である。国費留学生たちは、アルバイトに追われることは無くても、出身国から与えられた使命に応えようと、研究に追いまくられ、地域の人々や日本の風俗習慣に触れる事無く留学期間を終えて帰国する者が多いと聞く。その彼らが、親日家や知日家を名乗る政府高官になるとすれば、いささか寂しい。また、私費留学生たちは、経済的な問題から学業とアルバイトの両立に苦しむものも多い。その彼らにも、地域の人々や日本に風俗習慣に触れることの無い留学期間で終わる場合が多々ある。本物の親日家や知日家を生み出すのに、実に大きな機会損失である。

留学生も含め、来日する多くの外国人が希望することの中に、「短時間で費用をあまりかけずに、ひととおりの日本文化に触れてみたい」というものがある。

「神社」「仏閣」の見学や「坐禅」や「精進料理」を食する体験。「瑞穂の国」の米や農産物を学んだり農業の実習。「茶道」「華道」「香道」「書道」「水墨画」「日本画」などの体験。「神楽」「歌舞伎」「浄瑠璃」「日本舞踊」「民謡」などなど、見学や体験させられる可能性のあるものは実に多い。

これを地方で、地域で行えるカリキュラムにつくり変えて実施できれば、国際貢献や国際交流に波及する成果として、かなり期待できる。日本に来る客人は、少なくとも日本に関心の高い人々である。また、反対に観光やボランテイアで外国に出かける人々も多い。出かける先々で日本文化について問われる。語学力より日本文化に対する造詣の深さに注目される。大都市圏で、日本人がひととおりの日本文化について学ぶことは、カルチャーセンターのセミナーならまだしも、経済的な負担も含めかなり困難なように思える。地方であれば、文化人や趣味人のネットワークを地域で構築して対応できるのではないだろうか。地方だからこそ出来ることは、意外に多いと思うのだがいかがだろう。

真面目に取り組んだ「こども銀行ごっこ」のこと。

生活

 2000年から翌年にかけての一年間、旧共産国である某国の自動車産業振興セクターに、公務で国際協力専門家派遣されていた。プラントを建設するというような物の支援でなく、完全な技術移転型(教育)のODA(政府開発援助)であった。このプロジェクトでは、多くの企業とそこに働く人々との触れ合いがあり、様々な業態を開発し、企業の強みを生かす計画を策定するなどした。このセクターは、競争力を持つ著名な貿易港と古くからの重工業地帯を後背にして、近隣の工場の特性を生かしながら、有機的な産業振興を行おうとするものであった。その国の担当者は、どうしても古くからある大きな工場や事業所を核として据える発想から抜け出せないでいた。このようなセクター振興の場合、間違いなく全体事業の成否は、小職の経験からすれば「モデル事業指定」の一点である。モデル事業の重要性は、「あのようにすれば良いのか」という大切な手本を示すという意味もあるが、加えて、振興セクター全体の「事業目標や計画意図」を考えてもらう意味から重要である。小職は、ある企業をモデル事業にしようと考え、「日次決算の重要性」と「財務管理」「原価管理」手法を学んでもらうために、真剣に「こども銀行ごっこ」に取り組んでもらったことがある。

その企業は、もともと農村地域の真ん中にあった。

旧共産国の企業は、もともと行政単位の市によって創立され運営されているものか、中央省庁の関連事業や福利厚生事業などの要請によって生まれたものが多い。だが、小職が指定した企業は、農村の副業から生まれた企業であった。農民は、旧共産国では、国の成り立ちからして重要な働き手として大事にされるが、如何せん現金収入に恵まれず苦労をする。そこでこの村では、長(おさ)が音頭をとり、農閑期に農機具を作り、修理する仕事をはじめた。もともと農民は、年中無休で朝早くから日が暮れるまで仕事を厭わず働き生きている。長が正直者で、成果配分も公平に行ったため、働き手がそれに報いて生産性は向上し、品質も向上した。そして、至極当然に農閑期だけでなく、年間を通して生産・営業活動を行うようになった。

この企業は、当初、ある村の特定地域に集まる農民の副業から生まれたが、次第にそれぞれが一家をあげての参加と拡がり、さらに周辺地域にも雇用を生み出していった。鎌や鍬、鋤の類の生産・修理を主として生産を行っていたが、次第に技術力と輸出率を高め、ボルトナット類や各種工具類、自転車用の空気ポンプや自動車部品などを手がけ、2000年には自動車部品の中でも付加価値の高いアルミホイールの生産にまで事業は発展していた。特筆すべきはボルトナット類で、自動車生産を行う先進国の販売シェアを毎年伸ばしている。

この企業の強みは何だとお考えになるだろうか。

小職の所見は、「もれなく、段階的な成長を遂げてきたことによって得られた経営管理技術である。」村には長(おさ)に至るまで、大学卒や高等技術専門学校出身者などいない。難解な経営の本や経済原論の本など読む者もいない。誇る技術も、過去の経験で積み上げてきたものしかなく、大学に依頼して企業の強みを理屈づけしているような状態である。

この企業の財務管理と原価管理を指導しているときに、生産管理や品質管理指導の日本人専門家から「コンピューター(ハード&ソフト)の導入」をサジェスションしてくれないかと強い要請があったが、しばらく精査した上で申し入れを拒否した。理由は、「ある意味、コンピューターを必要としない体制と文化があるから」である。

 

この企業が創業された時、計算の手段は当然算盤だった。算盤の得意なものが、経理を今日まで担っていたに違いない。現在、この企業にはコンピューターが、ただの一台も無い。多分に必要でないからである。原価計算をおこなうと、小数点以下数桁まで細かい数字を扱わねばならない。いい加減な計算をおこなうと事業年度全体で、費用や損失に大きく狂いが出てくる。そのような重要な計算実務も算盤で、対応がこの企業ではできている。この企業の長にある相談をもちかけた、長は、21世紀のそう遠くない時期に自国はもちろん外国の証券市場に上場したいという夢を持ち、若い職員には熱く語っていた。

「長(おさ)、あなたの夢は、絵空事ではない。努力すれば、いくらでも実現を早めにすることさえ出来る」と小職が励ますと彼は、「どうすれば早まりますか?」「日次決算システム」だと小職は説いた。その日のうちに、毎日、企業価値や正味総資産額がわかり、財政や経営成績を関係者に知らしめることができるし、社外の信用は高まり、資金調達力や人材の引き寄せる力は高まる一方だと。この企業は、農村地域に今でも鎮座している。鍛冶屋と農機具屋の真似事のような状態から周辺地域の農民の副業作業所を集約し、飲み込むような形で発展してきた。だから、広い敷地内の事業所や工場は、もともと独立していて、それぞれが事業統合される前は、それぞれの仕入先や販売先であった。ここに「日次決算システム」を導入した。小学校1年生の算数でつかう「こども銀行券」を真似て作り、各種伝票に添えて「こども銀行券」で即時清算を行い、その日のうちに現金清算まで行ってしまうのだ。原価管理や財務管理などは、理屈をつけずとも直ぐに成績が上向いた。基本的に社内での財貨の移動を全て、社内取引と捉えて行う。社内取引でも長期の前払いや未払い処理が必要であれば、誰しも事業計画を示し、社内融資を受ける必要がある。官民何れであっても、事業の存在が経済的に不適不良だと組織は、絶命に至ることは必定である、戒めたい。

国際理解教育と考えておきたい食育

生活

  ここにきて、日本の食糧問題が心配になってきた。

まずは、カロリーベースで40%程度の食糧自給率のわが国で、異常気象などをはじめとする原因で、輸入穀物の相場やエネルギー関連輸入品が高騰し、長期に安定した調達と消費者物価指数の見通しに不安心理が扇がれている。

 

これまで日本国は、加工貿易によって高付加価値を生み出し、外貨を獲得し、安定した食料やエネルギー関連の輸入を実現してきた。しかし、地球環境の悪化と途上国の人口爆発によって、限られた食料の奪い合いが起きるのは、時間の問題であったが目の前の危機になりつつある。すでに、食料問題では経済成長した中国の動向がチャイナ穀物相場となり、世界経済がを右往左往させ始めている。

また、同様に中国や欧米による水産資源の大量消費による相場が立ち始め、

マグロをはじめとする買い付けで、日本は競り負けることが多くなってきている。寿司文化のグローバル化がもたらした皮肉な結果でもある。

 

平均で「1tの穀物を作るのにいったいどれくらいの水が必要か?」ご存知

だろうか。1tの穀物が作るために、種を播く環境にするためにそこに降る雨。そして、種を播き畑に降り注ぐ雨。雨だけでは足りないので、川から引く水。井戸から水をくみ上げるために、地下水脈を形成するために流れる水。それらは、平均的に考え、ならしてみると1000tということらしい。

穀物は、自らの重量の1000倍もの水を必要とするのであるから、食料不足の地球では富める国が、輸入を通して貧しい国の貴重な水を奪っていると主張する過激なNGOなどがすでに存在している。

 

食糧問題が、深刻化すれば食料自給率の低い日本は、金にものを言わせて食糧を買い集めれば、反発を起こされかねない存在に陥りかねない。第一、金があっても深刻な食糧問題が起きたとき、売ってもらえるのかどうか。日本に義理を感じ、親愛の情をもって接してくれる生産国がいったいどれだけあるというのだろうか。

財政悪化を理由に、国民感情に配慮して減らし続けられているODA(政府開発援助)。実施金額は、このたび英国に抜かれて世界第3位となった。このまま行けば、時間の問題でフランスなどの欧米主要国にも抜かれて行くことだろう。それらの国々は、食料自給率やエネルギー自給率も高く、地域の安全保障条約も手堅く行っている。それに対して日本国は、情けないが、食料も安全保障も他者に支えてもらわなければ成り立たない体裁である。

これからも日本が日本らしく存在するためには、他者へのいたわりや気遣いをさらに具体化してゆく以外に道はなさそうである。

 

ところで、有力な農業生産国とのお付き合いを中央だけに任せておく必要は無い。農業国の生産地域、現場の方々と直にお付き合いをすることは、食における人間の安全保障に違いない。口に入れるものであれば、命につながる問題を共有するのであれば、お互いに顔の見えるお付き合いは望むところではなかろうか。

 

さて、家畜用の飼料も高騰している。

食料の自給率の問題以外に、環境面や原油高への不安からバイオエタノールに関心が集まり、その生産が飛躍的に伸びることが予想され、本来、家畜飼料用に充てられるものがエネルギー源として買い進まれている。家畜飼料が高騰し、あるいは奪われ、国内生産が落ちて、輸入肉や加工肉商品が高騰する構図は、

食料安全保障をないがしろにしてきた日本国に混濁の未来しか暗示しない。

 

そこで、市町村レベルで農業国との積極的な人的交流や日本のバイオテクノロジー技術の移転に関して学術的な協力を推し進めることが、日本国の体質改善や食の安全保障を確かなものにすると思えてならない。

たとえば、日本の米が中国に輸出が再開された。この際は、数量を問題としない。価格競争力は無い米であっても、食味において優秀な栽培技術がある。

とはいえ、単純に種籾を売り、生産技術や管理技術を移転しても、日本国内の問題は改善しない。まずは、農業生産国に日本の現状を理解してもらい協力者になってもらうことが第一の課題である。

「食育」の見直しが政府の肝いりで本格化してきた。食べることは、命の問題である。本来、教育、体育、徳育と合わせた四育主義だったから宗旨かえりのようなものであろうか。いや、「食育」には以前と違い、地球環境問題や国際協調問題が含まれる。それだけに「食育」は、単なる日本政府主導の教育カリキュラムでもなければ、社会活動でもない。国際言語に近いものかもしれない。それだけに、「食育」を媒介して、農業生産国や日本が食料支援を行う国々と

国際理解を深める活動には、意味があり、また多くの指示を集めることだろう。

小麦や蕎麦、米などの穀物を使って、食文化をお互いに披露することができれば、「食育」活動の展開が、さらに「保健」活動にも及び大きな成果を生む

ことにもつながろう。国際交流に「食育」のキーワードも良さそうである。

地球全体で考えておきたい穀物と水のこと

生活



21世紀に入って直ぐに世界の人口は、60億人を越えた。2012年9月
時点では、それから10億7千万人ほどが増えた。食料生産は、十分でないが。

言うまでもなく、一部の例外を除いて、先進国や中進国(新興工業国)は軒並み人口減少傾向にある。人口が爆発的に増えている地域は、食料が不足し、さらに安全な水も不足。加えて、医療制度が十分に行き届かず、初等教育も十分に行き届かない地域である。負の連鎖が、絶えることなく起きている地域でもある。
元来、不毛の地であったり、塩害が起きているような地域を除き、食糧が不足しているのは、そのほとんどが、砂漠あるいは砂漠化しつつある地域である。

アフガンの戦火。直接的な原因は、テロであったり宗教的な対立であったり、あるいは超大国のエゴも見え隠れした。
しかし、明らかな遠因に食料の問題と環境問題があったことを否めない。残念ながら、これらのことが十分に報道されたとは言い難い。アフガンの大地は、インド洋の方角には、なだらかな丘陵が広がっており、中央アジア諸国へのそれぞれの方角に向かっては、急峻な6千メートル級の峯が連なる山岳地帯が広がる。古来、天馬を駆る英雄伝説や従順で堅実な羊飼いの物語が、その峯嶺を辿ったことだろう。アフガンには、様々な民族が住まっており、古くから遊牧や狩猟、行商、耕作などあらゆる生業を抱えた人々が多用な価値観を構成してきた。お互い、それらを尊重し、仲良く暮らしてきた。

前出の地理的な特色をなぞると、容易に急峻な峯嶺に冠雪が美しく輝く様子を想像できるだろう。その実、アフガンはどこも美しい雪が峯嶺を飾り、その雪解け水が大地に染み込み、夥しい数の羊を養う豊かな牧草を育てた。また、地下水脈を大きく広げ、穀倉地帯を地上に生み出し、数多く民族に幸せな営みをもたらした。
しかし、それはもう、懐かしい過去の話になった。
神々が、創りたもうたとされる峯嶺の雪は、すでに消えてなくなった。大地を緑でおおい、無尽蔵に羊たちを養い生み出したように思えた牧草も今は無い。地下にめぐらされた水脈も枯れ果てて、地上の穀倉地帯も消えてなくなった。
万年雪と形容されたかけがえのない財産。
その財産を奪ったのは、二酸化炭素排出による地球温暖化とされる。アフガンには、万年雪を解かして無くしてしまうほどの二酸化炭素を排出する工場群もなく、またそのような愚かなことをする民もいない。
アフガン戦争の時、攻め込んできたアメリカは、世界経済の30%を占めており、歓迎されない二酸化炭素排出は25%。2番目に多い中国は、4%経済で15%排出。

アフガンの人々の癒えない悲しみは深い。
今日を精一杯生きることが目の前の仕事であって。明日のことや他人には、なかなか思いが行かない。それは当然のことだろう。テロの犯人探しで、万年雪以外に多くの人々の命とそれらの糧となるべきものを奪われてしまった。
正義を語るものが悪と呼ぶものを制圧し、傷ついた民らに食事や医薬品を与えて行く。普通に暮らしたいアフガンの人々には慰めの言葉もない。
我が国の頼みとするところの同盟国、アメリカ。
その友人は、十分すぎるほど持てるものを少し与えることも惜しむばかりで、二酸化炭素排出の悪行を省みない。大排出国の中国は、都合によって発展途上国を名乗ったり、経済大国を名乗ったりする。アフリカや南米で、国際協力を行っているように思えるが、その実、資源確保のために借金漬けや義理で縛っている。
国連の安全保障会議において、常任理事国は5カ国。拒否権をもつ大変なスーパーパワーである。そのアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国が、死の商人のスーパーワースト5でもある。安全保障会議において拒否権を持ち、国際正義の実現のためにつくすべき立場の国々が、他方で殺戮のいつも最新の手段方法を提供している。この事実をどううけとめるべきであろうか。
日本の貢献できることを国際協力と呼び、見返りを強いることなく、只管、誇りある自立を促し続けてゆくのであれば、多岐にわたる支援で世界の良識ある市民として地位も確保できよう。

しかし、日本人も無意識のうちに、実に多くのものを奪っていることを自覚せねばならない。
日本の食糧の自給率は、カロリーベースで40%程度と紹介した。人口爆発が途上国で起きているが、地球の穀物生産は増えておらず、穀物生産の可能な耕作地は減っている。常識的に考えて、日本人が口にするために輸入される穀物がある一方、飢餓に苦しむ人々が出てくる。
「1tの穀物」を作るのに、「雨が降り、川が流れ、地下水脈が形成される」
このことを計算すると「1tの穀物を作るのに1000tの水が必要」という
ことになる。断じて計算間違いではない。それよりも、1tの穀物を輸入すると1000tの水の塊を輸入することと同じであるという自覚が、当事者にあるだろうか。先進国が、途上国の穀物と水を奪っていると過激に主張するNGOも数多く存在する。日本人の多くは、無意識に無自覚に、多くのものを途上国から直接間接に関わらず奪っているとも言えよう。国際協力は、日本の国是であっても良いと思えてならない。いかがだろうか。

名古屋のS商事N社長のこと。

生活

 景気に左右されるモーターレースだが、人気は根強い。フランスで行われる最高峰の耐久レース「ルマン」。モーターレースを見るたびにN社長のことを

思い出す。N社長と親しくなったのは、中国視察のアテンドを依頼されて、現地案内することが契機となった。天安門事件がきっかけで、世界中の外国人が、中国から一斉に本国に人と資本を引き上げたとき、私の知人は、あろうことか「今、進出したら目立つし、投資が再開したときには新時代のパイオニアになれる。」との思いで進出した。図らずも、私も氏のお手伝いをすることで、天安門事件以後の市場開放経済や各種手続き、行政法、税法に詳しい専門家ということになってしまい、中国政府公認の投資諮詢(コンサルタント)師資格を授

権利された。

N社長は、中国に進出した場合、日本式ガソリンスタンドや車回りの各種サービスは受け入れられるか?という「見極め」がしたかったのだった。「問題」は、サービスは受け入れられ必要とされるだろうが、サービスを行う側の「教育」だった。この時代、外資系の高級デパートでさえ、不愉快な接客などざらで、つり銭を投げてよこされることもざらだった。N社長は、中国での社員「教育」訓練を心配していなかった。彼には、教育に対する「哲学」と「確信」があったのだ。

名古屋の本社にN社長を尋ねて行ったことがあった。

本社に併設のガソリンスタンドや車検場の前を通ると「金髪」や「剃りこみ」を入れた「元気」のいいお兄ちゃん連中から丁寧な挨拶をしてもらった。恰幅よく、礼儀正しいN社長のイメージからして、この社員達の姿格好は、意外に思えた。聞けばN社長は、養護施設から、毎年毎年預かり、社会的な訓練を通して人材養成を行っているとのこと。見学をした夜、社の盆休み前の慰労会に誘われた。「金髪」や「剃りこみ」のお兄ちゃんがなれないネクタイを絞めていて、ビールを盛んに勧めに来る。決して、勧め上手でもないが、気持ちの良い接客である。「感じの良い子たちですね。」というと目を細めてN社長が口を開いた。「Tさん、こいつ等みんな、ち●ち●に毛が生えたぐらいの子なんです。」「私ね。気づいてくれるまで辛抱強く待つのが教育だとおもっているんです。」「最初ね。こういう場に連れてきても、真黄色の髪の毛なんかにしてるんだけど、2年くらい経つと黒い髪にしたりするんです。」「3年くらいしたらネクタイもするようになるし、背広だって着たりするようになる。」「良く気づいたなあ、お前って。言ってやると胸をはったりするんです。」「そんな時、こいつ等の親父になれるんです。」

その翌年、N社長は仲間とルマン24時間耐久レースに参加。カンパ集めも手伝った。ティ-ムT は、あと一周のところまでトップで走ったきた。早朝、友人知人を叩き起こして声援した。が、あろうことかゴールが見える直前、エンジントラブルでリタイア。逞しい赤ら顔に笑みを浮かべ「また、挑戦しま~す。!」と愛すべき親爺。枯れても、人生まだまだ余熱ありというのが嬉しい。

坂の上の雲を仰ぎ見つつ

生活

  「窓は夜露にぬれて~」と歌う小林旭の北帰行。原歌は、旅順高等学校の寮歌である。歌詞の一番こそ、小林旭の歌う曲と同じだが、二番以降は高等学校の寮歌にふさわしい詞が続く。旅順高等学校は、海外に作られた唯一の高等学校であり、特に東京帝国大学理科への進学が強かった。戦後、日本の科学発展に特に貢献した碩学にこの道を辿っている人も多い。旅順高等学校が多くの人材を輩出した背景には、歴史的なもの以外に自然環境や露欧につながる大陸の入口ような雰囲気が影響しているように思う。旅順は、今では北の香港、大連市郊外の港町。もともと、天然の良港であって水産資源に恵まれ、経済地理にも恵まれている。

 

冬は、風が強く耳を出して歩いていると、ちぎれるのではないかとおもうほど「風が痛い」。ほっておくと耳が、餃子のように腫れてしまうほどである。(寒い地方では、冬至に餃子を食す)夏は避暑に適するが、一年を通して霧が発生しやすく、船乗りや航空関係者を泣かせる。さて、この旅順を舞台に悲惨な戦争が100年ほど前にあった。二○三高地の奪取にいたるまでの物語は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しい。世界の列強の中を恐れていた日本。露との開戦を回避できずに夥しい犠牲を重ねてしまう。後に明治天皇に殉じた乃木希典元帥は、子息の命を散らせながらも、恥辱と悔恨の日々から逃れられなかった。二○三高地に愚直なまでの正面攻撃と屍の山。勝利と引き換えにしては、あまりにも失う物は大きかった。

無傷の勝利のようにいわれる日本海海戦にしても、負けない戦を緻密な計算どおりに行ったことが驚異である。湿度や温度、さらに風によって波の高さを想定し、船のゆれと砲撃の的中率制度を高めながら、演習を気が狂うほど繰り返してゆく。実に日本海海戦は、ほぼ予定どおりに戦い、そして勝ったのだ。が、しかし、余りにも勝ちっぷりが良すぎて困った。

 

ポーツマスに発った小村寿太郎は、賠償金や領土割譲等過度の期待の中、送り出された。実態は、戦費が嵩み財政難に苦しむ日本は、即刻和解する必要があった。しかし、国民は実態を知らず、二○三高地に代表される激戦で失った我が父や子や夫、兄弟の義憤を抱えるのみである。日露戦争後、日本も対露賠償交渉を弱腰と受け取った輩が暴動を起こし、交番や政府高官の焼き討ちを繰り返した。その時から百余年。朝鮮半島に進出した時からも百余年経った。今は、その国で社会への不満も含むのだろうが、反日を理由に過激な行動も起きている。「坂の上の雲」を目指し、只管に走った日本。挫折を知り、再び走る日本。今は、どの「坂の上の雲」を追うのか。

ベトナム人留学生 ヴォツァンマン君のこと

生活

 このところ、国内外のプログラムで若い世代のボランテイア参加が増えて来ていると知り嬉しく思っている。小職もボランテイア活動を可能な限りは参加したいと思うのだが、ふりかえってみると、その動機付けは大学時代にあったように思える。

小職は、大学には1976年に入学した。高度経済成長のあと、石油ショックに為替ショック(対米ドルの日本円変動相場制移行)などの強烈な未曾有の経験をして、日本もアメリカからの子ども扱いから少しは自立したころだったように思える。朝鮮戦争の後、米国はベトナムの共産主義化を阻止しようと戦争に踏み切った。いつも犠牲になるのは、決まって弱い立場の人間だった。大学に入学したとき、学籍番号が近いベトナム人と親しくなった。彼は、いわゆるボートピープルだった。、家族の話はしなかったが、戦争は悲惨だと繰り返し話し、平和になったら帰国し、国家建設のために働くといっていた。第二外国語はフランス語を履習したが、ベトナム人のヴォツァマン君には世話になった。フランスの植民地だっただけに、試験やリポート作りで援けられた。他方、商学科に入学した彼の苦悩は、簿記学や会計学、原価計算論、管理会計学、財務諸表論などだった。特に計算が苦手のようだった。数学と同じで、正解はひとつと言うのが普通である。原価計算論や管理会計学になると、高校物理学の授業のように応用計算や計算式の組み合わせなどの柔軟な思考力があると、圧倒的に有利なのだが、彼には神様が味方しなかったようだった。

試験の前には、一緒に泊まりこんで勉強した。彼は、ベトナム料理を作ってくれたが、今ほど香菜がポピュラーでなかったので、韮やパセリなどを代わりに使った。振り返り思うと、初めての味だったので、不思議な味でも疑問を持たずにいたが、今、口にしたら飲み込めないかもしれない。何れにしても、会計学系の入り口で、外国人に手ほどきしたことに違いなく、良い経験をしたことに違いない。その後、私は大学院に進学し、特殊な会計学、例えば共産圏の会計処理や財政学などを進んで学んだ。大学院を出て十余年、その共産圏で教壇や工場の財務部門の職場に立っていた。正しくは、旧共産圏である。民主化を踏み出した国々の国有企業を民営化したり、転業させたりするプロジェクトにJICA国際協力事業団~現:国際協力機構から専門家派遣されていた。ヴォツァンマン君は、大学卒業後、アメリカに飛び立って行った。もともと旧サイゴン市民(現:ホーチミンシティ-)、アメリカには親しみがあったのかもしれない。見送りに行ったが、その後、連絡も来なくなった。先年ホーチミンシティーを訪れた。トランジットの数時間の束の間だった。中央郵便局に立ち寄り、ホーチミン氏の肖像画を眺めながら、氏がフランスに留学し、祖国の有り様に憤って立ったことを思い出した。その場でヴォ君の健やかな人生を深く祈った。

国内で困っている人を差し置き、なぜ海外に支援を行うのか

生活

 リーマンショック以降、繰り返し襲ってくる経済禍。それでも日本は先進国の中でも比較的被害が小さいと認識されている。そうはいっても、円買いはあっても、株価指標は上昇傾向へ、なかなか脱しきれていない。思うに日本は、今はいたずらに楽観も悲観もせず、少子高齢化などにより坂を緩やかに下るのぐらいの気分でいるべきだろう。

率直にいえば、「経済は一流ではない」(借り入れ財政はGDP比先進国で最低、ひとり頭のGDPはOECD参加国34国の中位)と自覚すべきである。まさに、我々には現実を直視した心構えが必要だろう。

 

話は変わり、人道支援を食料の面から行うWFP(国連世界食糧計画)の啓蒙資料に目を通してみたい。紛争や内戦、洪水、旱魃、そして絶対的な貧困などから、「餓え」に苦しむ人は、8億5千万人以上、世界の人口の7~8人に1人に相当。このことが、5歳未満の子どもの餓えが原因で、命を落とす理由として圧倒的な深刻な事態になっている。WFPでは、およそ9000万人~1億人に食糧援助を行っている。この10年で途上国の飢餓は、急激なペースで増加。逆に援助食糧は各国の財政悪化もあり、2000年以降後退基調にある。

無理もない面がある。異常気象や旱魃、洪水などさまざまな理由により食料価格が異常気象による高騰。さらに、原油高等による運送費の値上がり、援助食糧財政は、いよいよ厳しい局面を迎えている。先進国のアフリカへの貧しい地域などへの関心が未だ低く、飽食で町に食べ物があふれているのに、支援は一向に行き渡らないでいる。「我々は、食糧支援を通じて“未来”を届けている。と説明しているとWFPは訴えているが、至言だと思う。

 

日本国内では、経済の急激な原則や社会構造の変化に対応できない社会的弱者は、確実に増えてきている。しかし、今日を生きるための食料に事欠き、餓えて斃れてゆく人が多くいるわけではない。むしろ、わが国を含め、温室効果ガス排出など、先進国の犠牲になっている怒りの矛先のむけ場のない国際社会の弱者に支援をおこなうべきではないだろうか。この場合の支援は、誇らしい節度ある気分ではない。自発的であるべきだが、義務感に近い気分である。

 

ここ数年日本は、周辺の東アジアは領土問題という名の利害が複雑にからむ

国難にまみれている。平和裏に問題を解決しようとするならば、国際的な機関で自らの思うところの主張をすると同時に、多くの同意者を必要とする。

支援者を財貨で釣ろうというわけではないが、困った人々を救う気持ちを惜しまない国家的な印象が、陰徳となってどれだけ自らを援けることになるかと。

天府の国

生活

 その土地は、天府の国といわれる。年が明けると間もなく、地上見渡す限りを菜の花が埋め尽くす。その黄色い大地は、四方八方に数百キロも伸びる。

この土地は、地味豊かで数が知れないほどの農産品をもたらして来た。

うがった言い方をすれば、岩山に囲まれた大きな盆地と考えたらよいだろう。ただ、一番外側にチョモランマ(エベレスト)という形容しがたい垂直に延びた壁のような頂きがあるのだが。日本に梅雨という独特の雨季をもたらすのは、夏に向かっての季節風が、チョモランマに吹きぶつかる。そして、湿った空気と雨雲を日本に送り出すからに違いない。したがって、瑞穂の国を生んだのは、かの国の天に向かって聳える頂やかの国の気候のお陰に違いない。

 

古くは、三国志の「蜀」の地。劉備玄徳や諸葛亮孔明、関羽、趙飛などの活躍に、古典の好きな人々は心驚かせたことだろう。この四川の地の人々に関する私の印象は、大柄な体躯の人があまりいないというものだ。温暖で、地味裕かで、農地や自然と生きる小柄な明るい人々が多く暮らす土地という印象が強い。私は、国際協力の公務で四川省の第二の都市綿陽市で、足掛け2年指導をしていたことがある。判官ひいきのような「蜀」の民の気分で暮らしていた。

 

少年の日、横山光輝の漫画で三国志を読み、後に、吉川英治の演義を読んだ。

いつの日か、五丈原や孔明の墓、武候祠(四川の省都成都市にある玄徳と孔明を祠る廟)に参りたいと願った。後に国際協力の仕事を望み叶ったとき、最初の仕事が、五丈原のある陝西省宝鶏市。続いて、孔明の墓のある漢中市で仕事をさせてもらった。そして、四川省の成都や綿陽市へ。不思議な縁である。

四川省には、5つの世界歴史遺産がある。仕事をしているうちに全て、ご当地に伺い拝見した。みな驚くべき景観ばかりだが、心底驚いたのは「都江堰」である。この水利施設は、2300年も前に当時の秦王に命じられた「李冰」が作った産業遺跡である。上海まで、この地から直線で1500キロ。上海から長江を遡ること3000キロ上流の支流、「岷江」という川に鎮座している。支流となめてはいけない、「都江堰」の取水口によっては毎秒700トンもの水を配分している。水利は、とかく揉め事の原因。命の源、人や食料の通り道。多目的な巨大な2300年前の産業遺産が、現在まで使われ続け存在していることが驚異である。遺跡近くにかかる夫婦橋という吊橋など懐かしい風景が、メデイアから悲報とともに伝えられてくる。その昔、橋の袂で毎日、石礫を投げていた。3000キロも上流とはいえ、支流とはいえ、長江の向こう岸まで届かせたかったのだ。頑張ったが、一度もとどかなかった。懐かしい思い出。

四川は、震災復興を果たしたと聞くが、雲南のことが気になる。

桃李もの言わざれども、下自ずから蹊(みち)を成す

生活

 この出辞は、史記にある一節である。皮肉なことであるが、此処から命名された成蹊学園は、首相も輩出するにも至っている。さて、話は戻り、この一節。本来の意味は、「有徳」のもとには、その崇高な人格を慕って、多くの人材が集まってくるというものである。

比喩として日本人は、桃や李(すもも)の花が美しいので、多くの人がそこを訪れ、それゆえ自然に道が出来るのだと解釈してきた。中国の人々は、花ではなくて、桃や李の実が美味しいから人々が集まるのだとした。結果、その樹木の下に蹊(こみち)が出来るのだと解釈してきた。いずれにしても、もの言わざれども自然に蹊ができるというところが素晴らしいのだろう。

 

年が明けて最初に咲くのは、梅の花である。そのあとに桃が続き、李、杏、桜と季節を彩ってゆく。日本人と中国人の桃李に対するイメージが花と実ほどに違う。中国人が、梅を国花にしたのは、「匂い」が良いからか。いや、歳の最初に咲くからか。あるいは、実が美味しく食べられるからだろうか(中国人は梅干のように酢っぱい保存食は作らない。干して砂糖漬けのような甘い茶菓子風につくる)。欧米人も桜のチェリーや李のプラムと聞いて薄紅や白い花を思い浮かべる人はいないようである。美味しい果実を思い浮かべるようである。日本人が本来持つ美意識とは、花のある心象風景のようなものではなかろうか。

 

梅のことにふれて、中国在留日本人孤児の話を思い出した。

その昔、東京地裁におこされた孤児たちの訴訟のことだ。帰国が遅くなったことに対する賠償訴訟で、国に賠償責任がないという判決だった。これに対し、成蹊出身の首相は、孤児の方々も日本語が不自由であり、政府として、高齢の方も多いので支援策を検討したいとのことだった。首相のコメントを聞いて腹が立った。

中国東北地方に入植した日本人は、長野県人が多かったが、殆どが農家の次男坊など耕作する土地をもたない人ばかりだった。移民というより、口減らしであり、棄民である。一方、満州国創立を果たした関東軍や官僚も中国東北地方に進出した。が、ロシアの一方的な宣戦布告による侵攻の中、事故を除き、全員無事に日本に帰国している。官は、無事。民だけから、残留婦人と残留孤児が生まれた。婦人方は、多少の意思をもって中国に渡ったかも知れない。では、残留孤児は、勝手に残留し、孤児になったのだろうか?戦後生まれの宰相の歴史認識が不十分なのか。あるいは、思いがおよばないのだか、徳が無いのか。おなじ李の箴言でも、「李下に冠をたださず」(疑わしきはしない、避ける)に倣わず品のないことばかりが、やたらと眼に入るご時世が残念でならない。

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