9月2012

永くとめおかれまし。その思い

生活

 かつて、「モンゴル」で戦没者遺骨を収集し、日本で保管されていたものがDNA鑑定され、遺族のもとに60年ぶりに還るということがあった。小生が、

このことに関心があるのは、97年から4年にまたがってモンゴルに派遣された

ことがあるのだが、そのころ遺骨収集が懸命に行われていたからだ。「モンゴル」は、一年の温度格差が90度以上になることころも多い。生きている事だけでも難事業のように思う。その国で、自慢される建設物がある。「日本人が創ったから、地震がきても壊れない。」と自慢する声もある。それらは、日本人が創ったには違いないが、「シベリア送りになった元日本兵」に違いない。食糧事情が悪い中、獄寒の中、日々絶望や苦力と戦かい、そして異国で斃れた人の思いは筆舌に難し。

 

2000年8月下旬。ふるさとの友人知人中心の30人ほどでモンゴル交流に伺った。団が最初に参ったのは小高い丘の上、日本人墓地だった。老人が、ひとつひとつ墓に向かって声をかけはじめた。「お寂しゅうございましたでしょう」「悔しゅうございましたでしょう」「お参りが遅くなりました、お許しください」「無念だったでしょう」「お辛うございましたね」などと。そして、全ての墓に参った老人は、墓地の最前列まで戻ると「お勤め」を朗々とはじめた。それは、長く続いたが、誰も厭うものはいなかった。幾度も草の波をシベリア方面からの風が吹き抜け、蒼天高く雲が早く流れ去ってゆく。

そこに眠る人の思いにふれたからであろうか。朗々とした声に混じって、嗚咽も聞き漏れた。そこに眠る人は、自分の身内でなく、ましては知人でもない。ただ同じ日本人である。見渡すと360度草の海。ウランバートルは、草の海に浮かぶ島のようだと司馬遼太郎は記している。陽が傾きシベリアからの冷たくなった風は、団を追い立てようとしていると思えた。

公式行事の時、その老人は、挨拶でノモンハン事件や旧帝国軍人の否を侘びた。そして、この地で斃れた多くの人を思い、モンゴル人の友に時間があったら墓に参って声をかけてくださいと懇請していた。再び、墓参りすると望んでいたが叶わずに逝った。九段、市谷で学び職業軍人となり、戦後武装解除などのあとに大学で学びなおし、いくらか遠回りをした。戦争で、兄弟や友人知人を多く亡くした。その悲しみは癒えることは無かったようだ。

山本周五郎は、「赤ひげ」に「この世は教訓に満ちあふれている。しかも、どれひとつとっても同じものはない」と語らせている。先の大戦は、ひとの数だけ無念な思いがあるに違いない。命あるものは、その想いを辿るべきである。「靖国」を国内外政治の道具の如くに扱う態度には納得がゆかない。「反省」を強要する国もされる国も、まずは、無念に斃れた人の声を受け止めねば成るまい。