9月2012

格差の議論は十分か?悲観論に説得力はあるか?

生活

 過日、OECD(経済協力開発機構~加盟国30カ国)が、日本の社会構造の変化を捉え、貧困層の人口比率が米国のついで世界第二位になったことに真剣な憂慮を表明していることを紹介した。

「格差」。この場合は、「経済格差」としたほうが適切だが、振り返って高度経済成長期以後の日本において、「格差」について国論を割って展開するには、適当な時宜が得られなかったように思える。それだけ、多くの幸せな時間が流れていたのだろう。明治維新以降は、国をあげて、様々な「格差」との戦いにあけくれたという歴史認識に誤りは無いだろう。

有識字率、つまり字が読めるか、読めないかは、その人間のもつ潜在能力の未来開発を大きく左右する。人間は、紛れもなく文字を読んだり、言葉を聞いたりして情報を入力し思考する。そして、想像されたものが出力されて有形化し、この社会を豊かにしてきた。明治維新以降、「読み書き算盤」は、この国に生まれたものであれば、誰でもどこでも享受できた誇りとする権利であり、誇らしい義務であった。明治維新から、実に国家財政の50%を超える予算支出によって支えられた義務教育は、世代を越えた最適有効な財産供与に他ならなかった。四方を海に囲まれ、資源も乏しく、欧米列強と互して競争を生き抜くには、経済開発の手法としても、国民義務教育の充実こそは、最も相応しい方法であったと思う。「教育格差」を埋めることは、「経済格差」を埋めた。さらに多くの人材の輩出は、「地域格差」を埋め、社会資本の整備、医療や国民保健の充実、加えて科学技術の発展を推し進めた。近代日本史は、「格差」との格闘に勝利した物語でもある。

ところで、小生はWFP(世界食糧計画)に賛同し、世界の子供たちに学校給食を提供する活動に参加している。学校が、彼らの未来を開発する場として存在し、同時に未来ある命を養う場として、栄養価の高い食事を提供できるのなら、それを支える立場にあることは誇りとするところである。他方、東京都内で学校給食費が支払えない家庭が増えている。また、本義務教育を終了後、進学もせず、就職もせず、ただただ時間をもてやましている者達が増えている。地方でも、商店街にシャッター通りが増えている。市部がゴーストタウン化したり、農村を主として廃屋だらけの無人地帯が増えつつある。少子高齢化による社会構造の変化の陰で、見落とした多くの致命的な病巣が、今となって発見されている思いだ。財政削減のメスで、病巣を切り取る一方、基礎体力や免疫力の向上の処方箋が無く、概して未だ来ない未来を不安に思い、過去の栄光にすがり、失敗を繰り返し悔いて暮らす神経症のような症状に似てはいないだろうか。まだ、希望の勢いは、赤く強い。それぞれに、自治体経営規模や経営効率を必死に見極めねばなるまい。後ろ盾となってくれた国にも体力は無い。