9月2012

荒海や佐渡に横たふ天の川

生活

 芭蕉が、元禄二年の旧暦七月四日に越後出雲崎で読んだ句とされているので、

今に置き換えると、8月も半ばの盆に差しかかろかと言う時分の句だと思われる。よくこの句は、「横たふ」が問題にされる。「横たふ」は他動詞であって、本来は「横たわる」にすべきだという論である。この議論は、大抵最後に「目を引くために」とか「強調するために」、「敢えて」という話にまとまる。

現代の日本で「他動詞」や「自動詞」が問題にされるようなことがあるか?といえば。身近な例が、「立ち上げる」である。「新規事業を立ち上げる」「あたらしいビジネスモデルを立ち上げる」「パソコンを立ち上げる」の類である。「可笑しいと感じないとすれば、正しくない日本語に少しは染まっている」といえよう。「立つ」が自動詞。「立ち上げる」は、自動詞的日本語ではない。この語彙は、多分、理工系の人が使いはじめたことだろう。国文専攻の人で「違和感」を感じないとは思えない。あるいは、芭蕉のように「強調するため」に使っているとしたら、「立ち上げる」が標準語化している以上、発案者は成功者ともいえようが、功罪相半ばで済まされるのだろうか?

 

教員養成系大学院が苦境にあるという。教員は、なにかと雑用が多く、気苦労も多い大変な仕事である。しかし、それは向上心があって、日々努力をしている教員のことであって。毎年、同じようなことを何の疑問も無く繰り返し教えている教員に対して持つ同情の念ではない。私の大学時代の恩師は、自ら著した教科書を授業の前に、いつも何度も何度も読み返していた。自ら構想を練りに練って書いた教科書ゆえ、書いたことを忘れたり、書き漏らしたりしたわけではない。むしろ、手を抜いた授業にならぬように、昨年と比較して進歩の無い授業とならないようにと努力したのだと思う。触発されたわけではないが、その教科書を覚えてしまうほど読み込んだ私は、結局、同じ教科書を4冊買って、背表紙がぼろぼろになるまで読み込んだ。後年、これは国際協力の場で、原価管理システムや財務管理システムを教えるテキスト作りに役立った。難しいことを行うより、基本の反復がどんなに大切かということだと思えるし、高度な応用技術も基本の反復から生まれるという真実を語っていることだろう。同じことを繰り返す。向上心があって、目標や計画を持っている人ならば、その繰り返しは尊い蓄積となって、その人の財産として誇れるものになるだろう。他方、能力がいくらあっても、高い知能をもっていても不満をもちながら、同じことを繰り返せば、単に時間の浪費に終わる事だろう。指導的な立場になったとき、かび臭い経験をを振りかざし、説教を垂れてばかりの見苦しいおやじには成り下がりたくないものだ。盂蘭盆会も逝った。遠く遠く、命の血脈を思い馳せたい。いずれにせよ、向上心をもって進む人は幸いである。