9月2012

握手の東限とお辞儀の西限

生活

   ウズベキスタンという国をご存知だろうか。実は、大変な親日国である。実は、ウズベキスタンには第二次世界大戦中、戦後に多くの日本人捕虜が労役に送り込まれた。シベリア送りと違って事故死以外の人が、解放後に無事の帰国を遂げている。当時、多くのウズベキスタンの市民から労役中に、内緒で食料をもらったと多くの旧日本兵が語っている。潜在的親日国にきっと違いない。

中央アジアでは、唯一、旧国際協力事業団が作った日本センターがあり、日本への関心も高い。かつて、大きな地震がこの国を襲ったが、日本人捕虜が建設したオペラハウスは、びくともしなかった。そのことは、日本人への尊敬や近親感としてこの国の人々に定着している。



さて、こんな話はいかがだろうか?民族学や博物学で著名な梅棹忠夫氏の著作によれば、「お辞儀の文化の西限」はインドである。「握手とキスの文化の東限」はアフガニスタンである。以前にも書いたが、アフガ二スタンは、交通や文化・民族の十字路であった。「握手やキス」の習慣がアジアでもアフガニスタンで定着しているのは不思議でもなんでもないし、他方、「お辞儀」の習慣が「インド」まで定着しているのもよく理解できる。「相手に触れて親愛の情を示すこと」や「相手への尊敬をあらわすこと」の大切さを古代から往来の中から人々は学んできたことだろう。



「キリスト教会」にある燭台。本来、仏さまの御灯明が東に行って燭台になった。本多美奈子が急性白血病で舞台がつとめられない「レ・ミゼラブル」の「ジャン・バルジャン」は、西で御灯明が生まれなければ存在しない役柄だ。パリのビクトル・ユーゴ通も生まれなかったかも知れない。国際理解は、多くの産物をもたらし、相互に豊かな夢も見させてくれる。



「インド」。昔は大インド亜大陸と誇れた領土だった。パキスタンは、つい数十年前までバングラデシュと国名が変わる東パキスタンと西パキスタンとに分かれていた。その前は、同じ国名で括られたインドだった。後の分断は、宗教観の相互に相容れないものが引き起こした。インドの大きな三角形。この下半分にヒンズー教徒を、上半分にイスラム教徒を集めようと為政者が考えた。結果、移動中にいざこざがおこり、多くの者が命を落とした。その恨みや悲しみは、降り積もったままである。カシミール紛争は、単なる領土問題ではない。「無理解」や「不寛容」が氷河のようにぶつかったままなのだ、きっと。