9月2012

ベトナム人留学生 ヴォツァンマン君のこと

生活

 このところ、国内外のプログラムで若い世代のボランテイア参加が増えて来ていると知り嬉しく思っている。小職もボランテイア活動を可能な限りは参加したいと思うのだが、ふりかえってみると、その動機付けは大学時代にあったように思える。

小職は、大学には1976年に入学した。高度経済成長のあと、石油ショックに為替ショック(対米ドルの日本円変動相場制移行)などの強烈な未曾有の経験をして、日本もアメリカからの子ども扱いから少しは自立したころだったように思える。朝鮮戦争の後、米国はベトナムの共産主義化を阻止しようと戦争に踏み切った。いつも犠牲になるのは、決まって弱い立場の人間だった。大学に入学したとき、学籍番号が近いベトナム人と親しくなった。彼は、いわゆるボートピープルだった。、家族の話はしなかったが、戦争は悲惨だと繰り返し話し、平和になったら帰国し、国家建設のために働くといっていた。第二外国語はフランス語を履習したが、ベトナム人のヴォツァマン君には世話になった。フランスの植民地だっただけに、試験やリポート作りで援けられた。他方、商学科に入学した彼の苦悩は、簿記学や会計学、原価計算論、管理会計学、財務諸表論などだった。特に計算が苦手のようだった。数学と同じで、正解はひとつと言うのが普通である。原価計算論や管理会計学になると、高校物理学の授業のように応用計算や計算式の組み合わせなどの柔軟な思考力があると、圧倒的に有利なのだが、彼には神様が味方しなかったようだった。

試験の前には、一緒に泊まりこんで勉強した。彼は、ベトナム料理を作ってくれたが、今ほど香菜がポピュラーでなかったので、韮やパセリなどを代わりに使った。振り返り思うと、初めての味だったので、不思議な味でも疑問を持たずにいたが、今、口にしたら飲み込めないかもしれない。何れにしても、会計学系の入り口で、外国人に手ほどきしたことに違いなく、良い経験をしたことに違いない。その後、私は大学院に進学し、特殊な会計学、例えば共産圏の会計処理や財政学などを進んで学んだ。大学院を出て十余年、その共産圏で教壇や工場の財務部門の職場に立っていた。正しくは、旧共産圏である。民主化を踏み出した国々の国有企業を民営化したり、転業させたりするプロジェクトにJICA国際協力事業団~現:国際協力機構から専門家派遣されていた。ヴォツァンマン君は、大学卒業後、アメリカに飛び立って行った。もともと旧サイゴン市民(現:ホーチミンシティ-)、アメリカには親しみがあったのかもしれない。見送りに行ったが、その後、連絡も来なくなった。先年ホーチミンシティーを訪れた。トランジットの数時間の束の間だった。中央郵便局に立ち寄り、ホーチミン氏の肖像画を眺めながら、氏がフランスに留学し、祖国の有り様に憤って立ったことを思い出した。その場でヴォ君の健やかな人生を深く祈った。