9月2012

豊かさと国のあり方

生活

 長寿世界一を今年は、日本が香港に譲った。この手のことは、ニュースになりにくいように思う。なぜなら、いつものことと、折込済みのニュース感があるからだ。

しかし、これはどうだろうか?「90歳以上の老人が100万人超」は。

65歳以上の人口が、ほぼ20%で国民5人にひとりの割合。いよいよ

超高齢化社会の到来という感慨もない。なぜなら人口の7%~8%を超えた段階で高齢化社会という言われ方の洗礼を受けて久しいからだ。さて、体に障害をもつ人の割合は5%程度といわれている。高齢者の体の機能も衰える一方だから、部分的にしろ体の機能が衰えた人や何かしらの障害を持つ人も多い。問題は、この国では障害者手帳を持つ方や老齢による体の不自由さを持つ人まで含めて、社会的理解が進まないと自治体や社会福祉団体を嘆かせていることだ。社会は、人を幸せにするために創られたに仕組みに違いない。「人は人を支えるためにある」と信じたい。しかし、肝心のヒューマン・ウエア自体に、不具合が出てきているのは何としたことだろうか。



敗戦の失望と廃墟の中から、ひたすらに懸命に働きぬいた世代が、支えつづけて今の日本の繁栄はある。第二次大戦後、皮肉な言い方をすれば、どの社会主義国家よりも「平等感」のある社会を実現し、どの国よりも世代間扶助の理想的な社会保障を一度は実現して見せた。これは、世界に冠たる誇りだろう。本来、世界一といわれてきた治安の良さは、国民の勤勉さとその努力に応える国家の約束事のような関係そのものだった。いかがだろうか?ながらく家庭のモラルは、長幼を基本としてきた。嫁が、長男が親を看取ることは当たり前のようにされてきた。世代間扶助を支える財政的な根拠も薄れ、中高年の雇用の受け皿として老人介護労働が定着した。これまでと違った価値観を持たねば、この世は棲み難い。社会保証上の不満は横において、まず社会の構成員として世代間扶助や地域における相互扶助の教育が必要だろう。

箱ものは、有り余るほどある。やがて住宅も自然な人口減から買い手市場になるだろう。オフィス街も再開発高層化や環境対策・温暖化対策から居住の快適性も増す事だろう。バリアフリー社会も公共交通機関などから実現しつつある。時間的な余裕を取り戻せた世代が、体の機能が不自由になることで芸術や文化、人とふれあう機会を逸することは、なんとも不毛な人生を強いるように思える。豪州の国是は、Living Together 「共生」。普通に生きても、永い人生である。これからの日本の国是は、「ともに生きて愉しもう。」くらいの精神的豊かさを持ちたいものだ。長寿の次は、豊かな人生世界一を。

 

平均寿命の話です。今度は、WHO。

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  世界保健機関(WHO)の先ごろの発表によると、長年世界で一番の長寿国を日本が保てずに香港に譲った。それでも平均寿命が、世界最長クラスということに違いない。「平均寿命とは、0歳児における平均余命のことである。」今の0歳児は、理屈の上では八十余年の平均余命をもっていることになる。

戦後間もない頃は、男性は平均余命が50歳くらいであった。織田信長ではないが、まさに人生50年というにふさわしい状況であった。わずかに60年ほど前の話である。60年間で32年の平均余命の伸びは脅威的だといえるのではないだろうか?。

おなじモンゴロイド(黄色人種)の国、モンゴル。小職は、食糧増産支援や鉱工業調査で国の仕事を行ったことがある。97年当時、小職担当の運転手さんが御母堂を亡くされ、お悔やみに伺うと60歳と知り、若いなあと思わず口をついて出た。実は、その地域では長寿でめでたいとのことだった。地域によっては、40歳台の平均寿命しかないところもある。過酷な気象、食糧事情、保健衛生体制と様々な問題を抱えている。大相撲の横綱は、モンゴルの都会出身だが、遊牧民的なマインドを忘れない。命を散らすが如くにぶつかる姿は、実は、命を惜しんで一瞬一瞬を懸命に生きているかのようにも見える。

 

さて、諸外国との比較だが、男性の平均寿命はスイスとほぼ同じ80歳を干割り込む程度。女性は、モナコとほぼ同じで80歳代半ば歳である。男女平均は、ほぼ80歳を少し超える程度になる。気になるのは、男女の平均寿命の差である。戦後間もなくは、3歳くらいだったが、今は6歳くらいである。格差はどんどんついてきている。

男女の平均寿命の差は、「生活能力の差」といわれている。

 

気になる平均寿命の一番短い国だが、スワジランドで35歳。シエラレオネは、5歳児未満で亡くなる率が、1000人あたり283人とWHOは伝えている。このような現実を前にすると感想をまとめることが出来ないほどに衝撃的である。宗教観からではない、現実に与えられた時間として命は大事にしたい。そして、それだからこそ、無事に人生をまっとうできない可能性の高い子供たちを一人でも救いたい。アフリカから、AIDS渦で両親が死に絶えた数百人の子供たちに、給食が与えられている写真が、世界食料計画の広報写真などで伝えられていた。そして、やがてその子供たちも発症し死ぬとある。子供たちは、等しく、私たちの未来のはずだ。一人でも救いたい。

日本史は、司馬遼太郎で学べ!?

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 中国との尖閣諸島領土問題は、憂鬱な空気をもたらすに十分である。中国の市民の反日行動は、何をやっても許されるような風に見えて、日本国内の対中感情をいやおうなしに刺激してきた。過去、対中政策についてはODA(政府開発援助)の有り方、特に「対中戦略」や「対東南アジア戦略」に政府や議会が感情的になりすぎていないか?という声が圧倒的であった。実は、「中国は、円借款において一度も滞ったこともないODA優等生である。」非のない相手に意見をするのであれば、品位に欠ける言動はいかがなものだろうか?。空港をはじめとする主要な交通インフラや技術支援に代表される無償援助などは、成功例に枚挙がない。感情的な言動は、積み上げた陰徳を吹き飛ばし、功徳も無にすることにもなりかねないだろう。

タイは、既に「ODA卒業生である。」が、バンコックの地下鉄整備には日本のODAが貢献し、感謝されている。資金は、日本、受注はドイツのジーメンスということで、とかく議論に上げられた。Aseanと中国の結びつきは、日本と雲泥の差がある。民族的な血縁の強さもあろうが、Asean諸国では、中国語が本当によく通じる。ほっておいても中国と結びつきが強まる一方だけであろう。ODAは、どうあるべきか?本来、日本外交の平和的強力なカードである。

先日、大手商社関係者から意見を伺うことも叶った。彼らには、「日本人自身の歴史への無理解。」や「アジア諸国への歴史への無理解。」が、やがて日本の不利益を大きくするという危惧を幾度となく伺った。“「日本史をまともに学べない学校。近代史をまともに学ばない学生。」に何を託せるとおもいますか?“”「日本史は、司馬遼太郎から学べ!」とでもいえばよいでしょうか?“などの発言は痛烈であった。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれた日露戦争。頭が狂うほどにシュミレーションを繰り返し、「戦略」「戦術」「戦務」にルーチンワークを構築する様は

凄みがある。日露戦争勝利から百余年。ロシアは、北方領土問題や対日勝利行事を粛々と実施しながらも、大事な石油や天然ガスのお買い上げや開発投資のお客様である日本。その誇りを傷つけるような商人にあるまじきはなさらないようだ。筋金入りの商人かとも思う。

日露戦争勝利百余年、他方、朝鮮半島にとっては、屈辱的日本の保護国下にされて百余年。とかく加害者は、相手の痛みを忘れがちである。しかし被害者は、いつまでも痛みを忘れない。相手の立場にたって、考えましょうと、学校では繰り返し教わったような気がする。いつもこちらから推察するような態度では、いつまでたっても感情の溝は埋められまい。相手の立場にたって、まず何を考え、思うべきか?国家規模で、そして個として考える時が来た。

日本全体で、歴史に何を学ぶべきか考えねば。“司馬遼”まかせも程ほどに。

貧困。この悪しき怪物退治こそ、世界平和の希求の基礎。

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 かつて、ユニセフ(国連児童教育基金)から「貧困」に関する調査が発表された。「貧困層」の定義は、「平均年収の50%に満たない」である。日本は、2000年時点で、こども全体の14.3%が貧困層。その後、リーマンショック以降、貧困層は拡大基調にあるが、大掛かりな統計が待たれる。「平均」をどうみるか?これも問題だが、後に意見を譲る。さて、90年代以降、貧困層は、確実に増えている。日本は、中流意識が高いと言われ、また「平均」的なモデルになる家庭も実に多かった。現在は、史上まれに見るホームレス人口の増大と超高級スポーツカー「フェラーリ」の販売台数が史上最高という矛盾の枠組みの中で、「平均の意味」は問われているのだとおもっている。最近は、スーツを着たホームレスの人もめずらしがられなくなった。

先進国では、「貧困層」が13カ国で増えている。減少は、英・米・北欧の7カ国だけである。貧困層が減った英・米は、人口に対する貧困割合が、それぞれ15.4%、21.9%である。貧困層を減少させたと誇れない現実がある。単純比較は出来ないが、やりきれないくらい多くの貧困家庭が存在するのだ。

 

先進国では、公共の福祉の実現に向けて、冨の再分配を税の徴収後、社会保障の形で行ってきた。これらに篤い北欧では、支出のGDP(国内総生産)比がデンマーク28.9%スウェーデン28.6%である。社会保障は行き届いているが、税の負担感は相当のものである。



欧米の場合、キリスト教会を中心にして自然派生的に教育機関、医療機関、そのほかが生まれてきている。普通に10:1献金(収入の10%程度を自発的に寄付する)が行われているが、欧米ではこのような寄付は税額控除を受けられる。税務支出と同様に見なされる社会福祉への寄付支出は、税額控除(所得控除)をうけられるので自らの意思で、社会への自らの所得の還元もできる。日本は、論議が成熟していない。戦後の税制は、それまで賦課されてきた形の上に、申告納税制度の二階屋を建てた感じでどうもしっくりいかない。税制を批判するわけでないが、源泉徴収制度はドイツと日本に存在するだけである。これは、第二次世界大戦の戦費徴収に都合が良かった名残だから驚いてしまう。税制は直間比率や人口構成、社会保障制度などと連動しているので、短絡的にことを決めつけられない。しかし、わが国の98年以降の協働、99年のNPO法施行以降の発展を見て思うに、貧困退治もお上主導にばかりお任せせずに行いたいものである。エイズも砂漠化防止植林も貧困退治によく効く。自分の意思で、もっと人を救える、支えられることを見つけたいものである。

握手の東限とお辞儀の西限

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   ウズベキスタンという国をご存知だろうか。実は、大変な親日国である。実は、ウズベキスタンには第二次世界大戦中、戦後に多くの日本人捕虜が労役に送り込まれた。シベリア送りと違って事故死以外の人が、解放後に無事の帰国を遂げている。当時、多くのウズベキスタンの市民から労役中に、内緒で食料をもらったと多くの旧日本兵が語っている。潜在的親日国にきっと違いない。

中央アジアでは、唯一、旧国際協力事業団が作った日本センターがあり、日本への関心も高い。かつて、大きな地震がこの国を襲ったが、日本人捕虜が建設したオペラハウスは、びくともしなかった。そのことは、日本人への尊敬や近親感としてこの国の人々に定着している。



さて、こんな話はいかがだろうか?民族学や博物学で著名な梅棹忠夫氏の著作によれば、「お辞儀の文化の西限」はインドである。「握手とキスの文化の東限」はアフガニスタンである。以前にも書いたが、アフガ二スタンは、交通や文化・民族の十字路であった。「握手やキス」の習慣がアジアでもアフガニスタンで定着しているのは不思議でもなんでもないし、他方、「お辞儀」の習慣が「インド」まで定着しているのもよく理解できる。「相手に触れて親愛の情を示すこと」や「相手への尊敬をあらわすこと」の大切さを古代から往来の中から人々は学んできたことだろう。



「キリスト教会」にある燭台。本来、仏さまの御灯明が東に行って燭台になった。本多美奈子が急性白血病で舞台がつとめられない「レ・ミゼラブル」の「ジャン・バルジャン」は、西で御灯明が生まれなければ存在しない役柄だ。パリのビクトル・ユーゴ通も生まれなかったかも知れない。国際理解は、多くの産物をもたらし、相互に豊かな夢も見させてくれる。



「インド」。昔は大インド亜大陸と誇れた領土だった。パキスタンは、つい数十年前までバングラデシュと国名が変わる東パキスタンと西パキスタンとに分かれていた。その前は、同じ国名で括られたインドだった。後の分断は、宗教観の相互に相容れないものが引き起こした。インドの大きな三角形。この下半分にヒンズー教徒を、上半分にイスラム教徒を集めようと為政者が考えた。結果、移動中にいざこざがおこり、多くの者が命を落とした。その恨みや悲しみは、降り積もったままである。カシミール紛争は、単なる領土問題ではない。「無理解」や「不寛容」が氷河のようにぶつかったままなのだ、きっと。

スモールティーチャー、スモールドクター

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 小生の郷里の先輩夫妻が、アジア最貧国のひとつとされているラオスにJICA(国際協力機構)から医師として派遣されていたことがあった。派遣期間は、2年間だったが、やりのこしたことがあるとNGOをたちあげて、日本と現地を行き来しながら支援を続けた。

最貧国というぐらいなので、保健衛生環境がもともと良くない。良くしようとしても、貧しさから優先しなければならないこともある。ずいぶんと歯がゆい思いをしたようだった。たとえば、読み書き。もともと社会主義国家なので、制度としての教育はあるが、貧しければ学ぶことより稼ぐことを優先せざるを得ない人がいるのが現実。他方、人は文字や言葉を使って考える動物である。学ぶ機会を奪うことは、能力開発の機会を奪うことになる。必要な人に、必要なものが不足。夫妻は、保健衛生の向上などのために「スモールティーチャー」「スモールドクター」制度を積極的に取り入れた。NGOもまたそれを支援した。

 

そもそも、この「スモール~」という制度はどのようなものかといえば、幼児を積極的に先生役、医師役として使うというもの。ラオスには、「鉤虫」というものがいて、当時、かなりの健康被害をもたらしていた。「鉤虫」は、トイレあたりの土に潜んでいる。そこをラオスの人々は、裸足であるいて皮膚を食い破られて侵入されることが多い。保険衛生向上の使命を帯びた小さな先生らに、「トイレに行くときは、履物を履いてゆくように」と徹底的に反復すると家庭にあって、父母や祖父母らにしつこく注意をしてくれる。子どもらは、純粋なので行動をほめてあげれば、たいていの人が根負けするまで注意してくれる。

かわいい子らの懸命な話も大人には無視できない。ラオスでは、驚くほど短期間で「鉤虫」による被害が激減した。さらに、文字がわからない人にはサインシステム(万国共通認識可能な絵文字)を使って、保健衛生にかかわる知識の普及啓蒙に努めた。それも小さな知識人に頼ることにした。スモールドクターらは、習いたての保険知識とサインシステムを使って、徹底的に活動してくれる。手始めは、「手洗い」や「石鹸の使い方」。大人が、適当なことをすると手厳しいのだが、怒るわけにも行かない。

小さな先生を使うという作戦は、以外に効果がありそう。日本の地域振興や環境対策にも導入できないものだろうか。

その後、ラオスで大きな副産物が生まれた。それは、バナナのこと。保健衛生上、トイレの改修が進んだ。簡易な浄化槽はつくるが、「栄養分」を土にしみこませることにした。理由は、挿し木をしてバナナ畑を作っておくと、どんどん「栄養分」を吸い込んで発育がよく、おいしいのだとか。トイレバナナの栄養分が、集落の健康に役立っているとか。リサイクルによる黄金の副産物の話。

背筋を伸ばそう!北欧の日本と誇りを持って呼称する国がある!

生活

 北欧のフィンランドは、子どもたちの「学力世界一」でよく注目される。首脳は、「世界一」の秘訣を「読書」それも音読をあげていた。その昔、日本でも四書五経の音読、素読は、ごく普通の日常風景に違い無かった。昭和も50年代を過ぎたあたりから、徐々に読書離れが加速していったように思える。

この国フィンランド、フン人(族)によって国を興している。マジャール人などと同じく、遠くは中央アジアに祖を仰ぐ。日本人とは細いながらも、アジア遊牧系人種を介してつながりのある国である。隣国には、ロシア帝国や旧ソビエト時代から安全保障面から始まり、あらゆることに苦しめられてきた。

今から100年前、日露戦争の勝利の時には、東洋の同胞の勝利だと日本を讃えた。「東郷提督(アドミラル・トーゴー)ビール」までつくり、何かと祝いの席で振舞ってきた。国土や少ない人口の問題から携帯電話が早くから普及し、NOKIA(ノキア)ブランドを生むが、自らは「北欧のSONY」と名乗る。大国と科学技術や貿易で対等に渡り合おうという思いなのか、「北欧の日本」と名乗る。隣国やアジアへの贖罪意識からなのか、背中が丸くなりがちな日本。反省の決議は何回目なのか分からない。反省は大事だが、外圧や国会決議が必要なのだろうか?「謝ることさえ、きちんとできないのか?」と誤解されそうな報道や、時に自虐的な発言が続く中、「北欧の日本」と自ら誇りを持って称する彼らには励まされる。「背筋を伸ばそう!北欧の日本と誇りを持って呼称する国がある。」

 

先のオリンピック招致合戦で仲の悪さをあらわにしてしまった英と仏。お互い、批判がすぐに罵り合いになるくらい相性が悪い。しかし、相互に文化や歴史的背景などに理解は深い。歴史教科書問題などで国益ばかり優先させて主張し、緊張を強いても相互理解を深めない中・韓・日は、英・仏に見習う点が大いにある。

 

ロシアの世論も一時期からすると、日本の常任理事国入りや北方領土返還に肯定的な意見が多数を占めることも調査によっては多くなっている。意外にロシア国民は日本のことをよく学んでいる。工業生産や輸出輸出量や世界経済に対する比重に比べ、CO2排出などが極めて低いことなど承知している。(永久凍土が解け始めていることへの危機感も強い。)スーパーパワー米国は、最盛期世界経済の30%を占めて、25%のCO2排出だった。中国は、GDPで日本を追い抜いたが、排出はすでに世界一である。我らが日本は、経済規模は、中国に及ばないが排出量は、中国の約6分の1、アメリカの5分の1である。世界に誇れる物は、日本にはまだある。

少子化が心配なのは、日本だけではありません。OECD。

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経済協力開発機構(OECD)の社会保障相互会議は、近年、「少子化問題」

について警告を発している。日本では、「少子化」という言い方をしているが、

OECDでは、プライバシー保護の立場から使用しなかった「出生率」という表現を用いて、OECDの「共同宣言」に「危機感」をにじませている。

OECDは、48年。もともと第二次世界大戦後、欧州復興の米国マーシャルプラン受け入れのための原組織・原加盟国を源流として持っている。それが、1961年経済協力を行う機構として欧州に米国・加国を加えた20ヶ国でスタートし、64年日本の加盟後は、フィンランド(69年)豪(71年)ニュージーランド(73年)メキシコ(94年)チェコ(95年)ハンガリー、ポーランド、韓国(93年)スロバキア(00年)と加盟国を増やし、以後34ヶ国となった。

一般的に、先進国というと「こども」に豊かな生活や教育を享受させるために「少子化」傾向になるといわれてきた。OECD加盟国には、中進国や国力を

十分に蓄えきれていない国も見受けられる。

 

途上国時代にピラミッド型の人口構成図だったものが、やがて釣鐘型になり、

爆発的な経済発展を迎える頃には、釣鐘を2つつけたような形になることが、近年の統計によって明らかになった。2つの釣鐘は、実は2段ロケットといったほうが良いかもしれない。お隣の韓国は、実にこの2段ロケットに点火されてさほど時間が経過していない。日本の該当した時期は、高度経済成長期と言われた時代にあった。人口は、一度バランスが崩れるともとに戻らないと定説で言われているので、日本にあの爆発的な成長期は2度と訪れないようだ。

 

さて、話をもどしたい。先進国だけでなく、中進国まで含んだ加盟国全てで

「少子化」でなく「低出生率」という言葉で表現した実態は、ひとりの女性が生涯に生む「こども」の数を示す合計特殊出生率が、2002年にOECD平均で1.5人(日本は、同年1.32人)となっており、人口維持するのに必要とされる2.1人に遠く及ばない。先進国では、高齢者対策が何かと問題になっている。人口爆発は困るが、出生率が十二分に維持できれば、世代間扶助も成り立つ事だろう。しかし、事態は思うより悲観的に推移しそうである。

他方、OECD加盟国が、「少子化」「低出生率」で頭を痛めるときに、人口爆発が確実に起きる国があり、またAIDSその他の感染症で平均余命をどんどん縮める国もある。地球には、食料も含めて有限の資源しか存在しない。カロリーベースで食料自給率が40%、エネルギー自給率も同様。OECD加盟国と同じように悩みたい日本だが、一番前に座って範を見せる立場のようだ。

商いと始末。三井高利の教え

生活

 ここのところ、「モラル」と言う言葉が、巷間を激しく飛び交っている。

世界的な証券会社の野村證券が、もっとも卑しく下劣な評価をいただいた

のは、もっとも初歩的で最低限のモラルを保てていなかったことによる。

かような世相を背景に、猫も杓子も「モラル、モラル」と口角に泡を飛ば

している。日本で商道徳らしき規範を作った者といえば、三井高利を思

浮かぶ。

 

さて、高利は、越後屋と合併し、三越として店を盛んにしたが、言わずとしれた三井財閥の祖である。永きにわたり、受け継がれた商いの心の礎石とも言うべきものは、いかがなものだったのだろうか?思いを馳せたい。

高利は、伊勢商人である。伊勢丹、松屋、松阪屋、の大百貨店とともに、お伊勢参りの全国からの参拝客に、藍染めなどの木綿丹を勧めていた呉服商

である。なにせお客は全国から参る。それも一生一度のお伊勢参りと力が入っている、土産の選定も、選別をくれた人を思い、親兄弟を思い、気をもんでいる者たちに違いない。だからこそ、正直を旨とし、礼儀を重んじ、親切

であれと日々説いた。さて、営業のことを「商い」といった。飽きないようにせよというので「あきない」、「商い」になったとも聞くが、正直確信がもてない。充て文字で、日本の読みが付けあれているが、本来、中国の字源に従えば、商は、女性自身を表すので、資本のCAPITALと同様、殖える

ことや生み出すことを意味するのではないか?あるいは、岡に立つという字の組み合わせと考えれば、人の往来のあるところに成り立つものと読めなくもない。ところで、帳簿方のことである。これは「始末」と言った。英語では、ピリオドだから、日英ともに同意語だと考えてよい。

 

高利は、「始末」の大切さを日常習慣から教えた。例えば「雑巾がけ」。始末は、清掃につながるのだ、硬く搾った雑巾で、朝早くから板間の雑巾がけをさせたり、店の隅々まで清掃を奨励した。丁稚奉公は、清掃の躾を文字通り美しく身につけさせた。徹底して「始末大切」を教え込んだのだ。これは、3S、5S運動にもつながる。つまり、整理、整頓、清掃、清潔、躾などにつながる。よく大卒の新人が、馬鹿馬鹿しいという5S運動である。ここで、馬鹿馬鹿しく思う奴が大馬鹿者である。なぜなら、資源小国技術大国の日本が生き残れたのは、TQC~トータル・クオリテイ-・コントロールに尽きる。これは、全的な5S運動に他ならなず、三井高利以来の精神文化だと考えている。それは、今も現場で、導線や適正在庫、材料供給、生産管理などにつながる。技術革新と価格競争こそは、世界に冠たる雑巾がけの心である。

「国際連合」と あの「連合国」は、同じUNAITED NATIONS。

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 今年も秋を迎え、国連総会をはじめ国際的なイベントが目白押しである。

だが、これまで国連改革に関する「勧告」を行われたが、暗礁に乗り上げている。近年、日本の「安全保障理事会の常任理事国入り」について、近隣諸国の政治的な発言がとみに目立つが、「安全保障理事会改革」だけが「国連改革」ではないのだが、これまでの「勧告」の内容に注視したい。

 

2000年9月に21世紀の国際社会の目標として「国連ミレ二アム宣言」を採択し、2015年までに達成期限とした国連ミレ二アム開発目標を設けた。

開発に関して、このたび事務総長は「貧困からの自由」「恐怖からの自由」「尊厳を持ち続けるための自由」に3章を割いた。

極度に貧困に苦しみ悩む途上国に対しては、06年までに「国内開発戦略」に着手するように要請し、主要援助国に対しては、15年までにODAの国民総生産(GNP)比0.7%の目標を達成するように求め、来年までに早急な大幅増額と09年までに比0.5%を達成するように求めた。先の事務総長諮問委員会で早期に目標達成すべき国を「常任理事国を目指す先進国」としていたが削除された。日本の近隣諸国の「常任理事国入りは、国連負担金比率を勘案するべきではない。」という発言があり、また「ODA」(政府開発援助)を「支出の必要性や支出の効果などから国民の立場で検証する」機運が高まっている日本で、杓子定規に照らして増額減額などを軽々しく扱うべきではない。

 

さらに「勧告」では、「武力行使」に関する安全保障理事会の役割を再構築するように提言された。内容に触れると、安全保障理事会が「差し迫った脅威の深刻さ」「武力行使の適切な目的」「武力行使の成功の可能性」などについて「一定の原則」を定める決議案を採択すべきであるとの考えを示している。安全保障に関する「国連の強化」の章では、第二次世界大戦で敗戦した旧枢軸国(日・

・伊・独)に対する「旧敵状国条項(国連憲章53、107条)を削除するように要請している。この問題は、見落とせない大きな問題である。

日本とドイツ、イタリアは、国連負担金を多く支払い、人的にも多くの貢献をしてきたが、いまだ「国連では、敵状国なのである。」映画「史上最大の作戦」でノルマンディー上陸作戦を行う「連合国」は、UNAITED NATIONS であり、その「敵状国」のうち「日本」と「ドイツ」が、拡大安全保障理事会の常任理事国入りを目指す「国連」もUNITED NATIONS である(イタリアは、

非常任理事国拡大案に賛成する立場)。UNITED NATIONS は、日本語で「国際連合(国連)」。戦勝国の中国語では、「連合国」。日本は、果たして、どこに

位置付けを行ってゆくことが、もっともふさわしく、そして正しいのだろうか?。

(鹿)

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