10月2012

相も変わらずに今も

生活

 東日本大震災発生以降、日本人の意識が変わってきたといわれることが多い。

他方、気の遠くなるような時代に遡っても、何も変わりのない様子も見受けられる。たとえばそれは、ゴーダマシッダルタ皇子(釈尊)が、2500年前に向き合った避けられない宿命「生老病死」の悩みから、いまだに人は解放されていないという事実。わずかな糧を争い、命を賭してまでも貪る本能。

科学技術が、病気を克服するたびに人類の寿命が延びた。農業技術の革命によって食糧も豊富になった。工業生産技術の革命によって、大きな雇用も生まれ、社会保障などの仕組みをできた。教育の機会を得て、能力を開花できる制度も整った。遡れば、理不尽に泣きながら多くの人々が死にゆき、膨大な長さの歴史のはざまに沈んだことだろう。他方、科学技術ばかりか、幸せを追求する仕組みを整えてきた現代。それなのに、解決できない悩みを抱えたまま、自ら命を絶ってしまう人が後を立たない。人は、本来、悩みを抱えて苦しむにせよ、幸せになるために生まれてきたのではないのだろうか。それは、幻想に過ぎないと考えてよいのだろうか。

近年、グローバリゼーションが唱えられ、国境を越えた資本移動や資本本位の経済活動が人々を豊かにしてくれると強く信奉されてきた。

しかしながら、富める国は貧しき国を救うどころか、明日の糧さえも奪い取ってしまうような有様で、物心ともに世界が豊かになることは、幻想に過ぎないのかとさえ思わせる。

 

ジョン・レノンのイマジンは、色褪せることなく歌い継がれてきた歌だが、

歌詞にあるように、宙から見下ろして、国境線も主権を唱える国の色にも染まっていないことは明らかだ。鉄腕アトムを生んだこの国で、原子力事故で国が心身ともに瀕死の重傷を負っていることは、なんとも皮肉なことである。政権交代で、劇的に生まれ変わる日本を期待し国民が動いたのは、つい3年前。政権が交代しても、日本人の民族性や日本人の思考習慣が変わらない限り、実はなにも変わらないのかもしれない。末法思想が、人に覆いかぶさっていた800年ほど前の鎌倉。元などの周辺国が安寧を脅かし、天変地異が起きて、疫病がはやり、家畜の病気もはやったその時代と重ね合わせてみる人も多い。鎌倉時代には、原子力のような科学技術は無かったが、知識人や仏教僧、為政者に、明らかに現代と違い、はっきりとした覚悟が見られた。これまでの価値観も変えなければ、ならないことだろう。国際的な地位に拘ってもおられない。放射能も怖いが、憂慮に覆われた国の空気は、絶望感につながる。かの国の人らも人の子。宿命の隣人同士は、結局のところ、民間外交に活路を見出すことが一番だろう。