11月2012

無限の豊かさ

生活

先ごろ、小生が所属する水墨画会団体に東大大学院で建築学を専攻する女性研究者が入門されてきた。バルト三国のひとつラトビア出身者で、日本語はほとんど話せない。英語を共通言語にして、日常会話はなんとかなりそうだが、水墨画の背景となる日本文化や東洋思想をどう伝えるか?苦心しそうである。

東京都内にある国立博物館美術館は、収蔵する国宝の展示を定期的に行っており、美術ファンはよく水墨画を眼にする機会は多いようである。しかしながら、水墨画を見たことがあっても、どのように描くのか知っている人は極めて少ない。墨をすり、その濃淡を水で調整し、紙の上で如何に筆を運んで描くか。それが、作家の技量や感性の見せ所となる。小生の所属する会では、主宰以下、ほとんどの門弟が同じ墨、同じ筆、同じ紙を使って描くのだが、生まれ出る作品は百花繚乱。墨の濃淡だけで描かれるのに、秀作といわれるものは、絵の中にある風や光や空気や音までも感じることができる。

墨色は、「五彩を兼ねる」といわれる。ここの五は、陰陽五行説の五だろうから、森羅万象を墨の濃淡で描けると、更に墨は濃淡をつけることによって、墨色は百にも千にも万にもなるといっているに等しい。

所属する会では、墨を使っていれば墨画というカテゴリーに入れることを認めている。門閥閨閥に偏った評価を一切行わないのが会是であり、他の流派の方でも、基準を満たしていれば公募作品として受付けさせていただいている。今年も北米と南極以外の大陸から、国際公募作品がにぎやかに揃った。

北アフリカは、ガンビア国(セネガルの内陸に広がる国で、テレビドラマ“ルーツ”の舞台となった奴隷貿易で歴史に名を残す)へは、会で特訓を受けた方々が、毎年、秋口から現地に赴き指導を行っている。基本的な画題の四君子(東洋の代表的な四つの花)~蘭竹菊梅~など見たこともないとおもうが、日本で定めたカリキュラムに従い、一通り学んでいただいている。その上で、展覧会には好きな画題で自由闊達に、個性豊かに描いていただいている。

 

墨の濃淡だけで描く世界。実際は、無彩色で北アフリカの人々が描いた絵なのに、眺めていて不思議に感じるのだが、実に豊かな風合いがあるのはどうしたわけだろうか。モノトーンの深い浅いではない。明度、彩度の問題でもない。墨の濃淡で、この世界の光から闇までのすべてを描き出せそうな雰囲気が現実にあるのだ。これは、まさしく「墨色は、五彩を兼ねる」というにふさわしい。

また、技量だけでなく、自然に対する造詣や家畜や家族に対する愛情が、作者の思いや願い祈りといったものを濃く伝播させるのかも知れない。墨の濃淡だけで描かれた母親や子供、牛や鳥の絵の中に、作者の人柄がにじみ出ているように思える。墨の濃淡だけでなく、滲(にじ)みや擦(かす)れを生かして、自らが生きるこの世界を表現。さらには、この世界で起きたことの伝承、伝説、加えて近未来なども想像して描く。上級者になれば、紙の白を生かしつつ濃淡だけでなく、粒子の細かさなどにも気を配りながら調墨し、森羅万象も描ききろうとする。墨と紙を駆使し、白い紙の上に表現するだけのことなのに、色彩のない不自由は一切感じられない。

 

水墨画は、もともと宮廷に仕える絵師らが皇帝にお見せするために描いたものであって、中国の水墨画(国画)は選ばれた人のみが観賞し、選ばれた人のみが描くという高尚な芸術だった。

宋の時代に日本へは、学僧らから禅や茶とともに伝えられたが、安土桃山時代の築城最盛期に障壁や屏風などの需要が多くの作家を育てた。さらに、長い鎖国が独特の画法描法を生み出した。

 

水墨画と同じく、中国大陸を源にする文化芸術は実に多い。

というより、漢字自体、あるいは漢字を基にした仮名文字自体が大陸から伝わったものだから、経典なども含めて大陸の影響は、伺いしれないほど大きく深いものだろう。

 

地政学的なこともあり、摩擦は今後も起き得ることに違いないはずである。

だが、隣人としてお互いを無視してことを解決できるものでもない。同根であっても、違った発達を見せる文化を照らし合わせながら、問題解決を探るのも

大きな智恵の発揮にならないものだろうか。