11月2012

なんで複数形なのか?スペシャルオリンピックス

生活

 報道機関の調査によれば、日本人の知的障碍者に関する理解は驚くほど低いという。知的障碍者に限らず、たぶん障碍者全体に対する理解が低いのだろう。心当たりはある。欧米の区々では、よく障害をもった人たちを見かける。公共交通機関をはじめとする社会的なインフラの整備が充実しているおかげであると思うが、障碍者を「特別扱いせずに外野に追いやらなかったからだろう。」と想像している。障碍者が気後れすることの無い社会を実現している。



日本では、少子高齢化が叫ばれて久しいが、やっとバリアフリー対策に役所の重い腰が上がった感じがする。「歳をとれば、誰でも障害をもれなくもつ

ことだろう。」そういう意味では、障碍をもつことは、「特別なことではない。」

脳梗塞などに襲われれば、若くして体の自由を奪われる可能性を誰でももっている。



小職は、知的障害者や特別老人養護施設を先天的な環境で身近に見てきた。

知的障碍者は、むしろ一般人と違って優れた特性を持っていることがある。例えば、生活雑器のような陶器を一日に何個も作らなければならないときに

健常者はすぐに飽きたり、根を上げるのに粘り強く作業できたりする。邪推や気の迷いもなく、休息を義務付けない限り休むことも考えずに一つのことに没頭していることもある。ある意味、凄みのあるような仕事を何気なくやっていたりする。彼らは、行政が医学的に劣る体の機能を分類して公共的福祉の実現のため、区別して遇してきた。

彼らは学校や施設から卒業すれば、仲間から切り離されて孤独になりかねない。心を通わせる仲間と会うことさえ、ままならなくなるのである。日本で理解が足りないということは、彼らを孤独に追いやってきた歴史があるということであろう。行政に頼らずとも、彼らとともに生きる知恵は共有できよう。行政のように標準的なものさしで考えれば、たりないものの多い彼らだが、われわれとかわりなく、等しく日本語を解し、誰一人として同じ生き方をすることの無い「スペシャルパースン」なのである。

さて、「スペシャルオリンピックス」という複数形名称の競技大会がある。その名称の由来だが、競技の時、練習の時、あるいは世界各地での大会の時、彼らにはサポーターが、いつも傍らにいるから、いなくてはならないから複数形なのだという。まさに至言の極みである。

アジアでは、先進国の仲間入りを先頭を切って果たしたという日本にはあるようだが、こと障碍者福祉に関して言えば、欧米に遠く及ばない。超少子高齢化社会に先頭をきって突入した日本。有る意味、高齢者福祉と保健衛生において世界に手本を示せたことだろう。政情が安定しておらず、不安視されている北東アジア。社会福祉の分野で、貢献できることを示してゆくことは、これから超高齢化社会を迎える中国韓国への関係改善への良いメッセージになることだろう。