11月2012

魚の食文化大国というけれど

生活

 近年、ワシントン条約に「地中海クロマグロ」を加える案が、浮かびあがったが、その時否決され、安堵したわが国の水産関係者は多かったはずである。しかし、安心はできない。環境保護問題や動物保護問題によって、いよいよ利害衝突が先鋭化していることを見れば、寒い思いがしてならない。

たとえば、南極海での捕鯨に異を唱え、手段を選ばず妨害活動をするシーシェパード。彼らが、和歌山で隠し撮りされたイルカ漁の映画「コーブ」の上映会で日本を非難する活動を精力的に行った実を見るにつけ、わが国の漁業関係者が、日本人の魚の食文化について、理解してもらえる活動を十分にしているとも思えず、寒さが増す思いである。彼らは、明確にクロマグロを標的にしており、近い将来、大間々のマグロ一本釣り漁師とシーシェパードの衝突が起きるかもしれないと危惧せざるを得ない。

 

その昔、日本人の海外旅行の体験記を呼んで噴飯したことがあった。レストランでのやりとりである。食通を自任する旅行者が、うまいものを食べさせるという欧州のレストランでボーイを呼んだ。旅行者:「君、この魚はなんという魚かね」。ボーイはシェフのもとに行き確認し答えた。ボーイ:「シーフィッシュです。旅行者:「・・・・」。旅行者は、すかさず「それじゃ、この魚はなんという魚かね」。ボーイは、ふたたびシェフのところに行き戻ってきて答えた。「リバーフィッシュであります」と。旅行者は、あきれて「もう、いいよ」となったようだが、魚料理に対して欧州の人々が、日本人や東アジアの人間のように造詣が深いとは思えない。海に棲む魚か、川に棲む魚かわかっているだけでもたいしたことなのかも知れない。ちなみに、その場に私が居合わせたら、鰻は「シーフィッシュかリバーフィッシュか」とこのボーイ君に伺ってみたかった。

ほかにもこの手の話はある。

大きなマグロを欧州のとある港近くのレストラン見つけた旅行客が漁師に聞いた。旅行客:「ご主人、この魚は、なんという魚かね」。漁師:「なんだ、そんなこともわからないのかい。教えてやるよ、ツナだ」。旅行者は「そんなこと、わかっているさ」とつぶやきながら、「じゃあ、あれは」とこぶりのマグロを指差したずねた。漁師は、「あれもツナだ。」といったらしい。ムキになった旅行者は、そこでカツオらしき魚を指差し、名を問うた。漁師もいいかげんにしてくれといわんばかりの表情で「わかんねえのか、あれもツナだ」と。大きなツナ、小さなツナ、青いツナ、黒いツナ、鼻先のとがったツナ。敵さんらは、「ツナ」でくくって不便はない。食文化を押し付ける前にすることがありそうだが。

障害者から障がい者へ。日本人の意識は変わるか?

生活

 本年は、オリンピックイヤーであるとともに、パラリンピックイヤーでもあった。このことを取り上げたかったのは、わが国の障がい者への意識が変わってほしいものだという願いをこめたいからに他ならない。

昨年、わが国の常用漢字に追加して認められなかった文字に「碍(がい)」があった。この「碍」の文字が、「常用漢字への追加が認められなかったこと」が、大きくメデイアに取り上げられた。認められた場合には、「障害者」から「障碍者」に表記が変わる予定であったため、準備を進めていたメデイアは多かったはずである。

障害者の「害」の字が、呼ばれる側から違和感があり、これに世論は動いた。

確かに「害」の字は、「損なう」とか「災い」の意味があり、否定的な意味合いが強い。他方、「碍」の字は「防げる」という意味が強いようである。戦前の日本の社会では、「障碍者」としていたという。戦後、これを変えたのは行政だろうが、どのような意図があったのだろうか。

いずれにせよ「害」の字を使うのは適当でないということから、日本の社会では今後、「障害者」は「障がい者」と表記されることが一般的になりそうである。

ところで、「障害者」を「障がい者」としても、さらに「障碍者」としても耳にする「音」は、おなじく「しょうがいしゃ」である。そのため、横文字で「ハンディキャッパー」という言い方をする人も多かった。横文字のほうが、イメージがやわらかそうに思うが、実際は子どもでもわかる良くないイメージの英訳である。英語では「ものごい」をすることを「キャップインハンド」という。「ハンデイキャップド」にしても良いイメージにはつながりそうにない。

 

今年は、オリンピックイヤー同様に、パラリンピックイヤーでも日本選手団の活躍もあり、目頭の熱くなるようなシーンが、連日テレビのスポーツ番組から流れ出てきていた。メデイアは、英語訳で「挑戦を必要とする人」という意味を持つ「チャレンジド」という言葉で、競技者を鼓舞し、聴視者にものの本質を伝えようとしていた。

昔、「文盲」という言葉があった。自ら望まない境遇で文字を学べなかった人には厳しすぎるほどの冷たい響きがある。文盲率は、その後「有識字率」という言い方になった。超高齢化社会となり、「認知症」の言葉も身近なものとなりつつある。その昔、「痴呆症」と呼ばれていた病気。旧名称を覚えている人も少なくなったかもしれないが、長く社会に貢献し、一家の柱として生きて、地域の人々に愛された人が、脳に障がいをもったとたんに痴呆症と呼ばれては救いがない。言葉によって、生かされも殺されもする人間。生命と人生に尊厳を。

英国の存在に学ぶところは大きい

生活

 かつての大英帝国として世界に覇を唱えた英国のGDPは、意外なことに日本の半分程度に過ぎない。意外に思う方は多いだろうが、輸出競争力はポンド高もあって停滞気味。生産してもソロバン勘定のあう産品は少ない。したがって、GDPに占める資本取引やサービス取引が大きいことが容易に想像できる。

スーパーパワーの米国の資本主義経済総本家ニューヨークの地位。ついで、ロンドンの金融街シティの基盤も磐石そうである。3つめはアジアの拠点といわれるが、いまだ定まらずといったところだろう。

本来アジアの拠点は、過去の実績では東京。機能ではシンガポール、現況では上海、香港といったところだろう。しかし、歴史のリトマス紙試験には十分叶っておらず、この先も激しい競争があることだろう。経済や文化などの国際的な地位や信用は、十年の単位で簡単に築けるものではないようだ。

 

さて、GDPが日本の半分程度にもかかわらず、英国の経済における存在感は圧倒的なものがある。長い時間をかけて磨かれた金融事業の集積、金融事業ノウハウの集積といったものが、歴史にあぐらをかくことなく続いているからこその世界からの信任であり、金融センターの地位なのだろう。

 

英国人は、歴史的に真実の探求より、現実対応という思考が強いと聞く。

それは、研究開発や経済投資にも大きく反映している。アメリカのノーベル賞受賞者は、医学理化学系を中心に300名をゆうに超えている。日本は、近年毎年のように受賞候補者が、出てきているといえども受賞時にアメリカ籍になった南部氏をいれて19名である。それに比べて英国の受賞者は、100名を越える(ドイツ80名超・フランス50名超)。

民間の研究支援体制にもよるのだろうが、基礎研究分野に対する取り組みは

特筆すべきものがあるようである。

EUに加盟することが遅かったこともあるが、通貨ユーロを採用することなく、今日まで通貨ポンドを制度維持し、国際市場からの信任も厚い。欧州経済の優等生のドイツには、外貨準備高や貿易額の実績では離されているが、欧州中央銀行の拠点であるフランクフルトを金融センターとしての地位では、逆に引き離しているということが現実である。独自の長期にわたる対外戦略が、存在し続けていたのであろう。

遠く明治時代にわが国政府が、国債発行や軍艦調達でお世話になった英国だが、近年、再び英国の存在に学ぶという日本の回帰もあるようで、いくつもの日英同盟が生まれつつあるようである。島国で安全保障上も共通する課題を抱える英国に学ぶことで、閉塞感あふれる日本の再興もありそうな期待もあろう。

先が読めない

生活

 終身雇用制度ということばは、長く耳にしなくなった。というより、雇用自体の確保が、かなり厳しいからに他ならない。業績を回復させてきた企業は、コストカットを繰り返し、渇いた雑巾を絞りだすように利益を上げてきた。利益を残せた最大の要因が大幅な解雇では、明るい顔を見せられるはずもない。巨大企業のサムスンやLGを擁し、洋々と世界に打って出ているような印象の韓国。しかし実態は、アジア通貨危機の際に行過ぎるほどの解雇を行い、非正規雇用者だらけの社会になり、格差社会になっている。日本とは比較にならない学歴社会の韓国。安定した職に就くには、超難関大学を卒業するしかないとまで聞く。

世界の工場から一大消費国になった中国。加熱する景気で人件費は暴騰し、

東南アジア諸国に工場移転するような企業が目立ってきた。ローテックなものからハイテックまで、本来、現場で蓄積すべき技術は多いのだが。

中国は、高度経済成長の中、大学の定員を2倍に増やした。結果、多くの新卒者が就職できないでいる。意外に思われるかもしれないが、中国の学費は所得に比してかなり高額である。感覚としては、日本人が欧米の有名私立大学に進学するような感じだろうか。日本でも、親の所得格差が子の学力格差といわれてきたが、中国や韓国においては日本の比ではなさそうである。生まれてきた階層から這い上がるのは容易ではない。韓国は、もともと貴族中心の国だった。中国も戦乱の時代も多くあったが、長く王侯貴族や官僚の支配する朝廷の国だった。共産主義国になっても、紅い皇帝や官僚らが代わって支配していた。

 

いまや、経済や文化や情報分野において、すでに国境は意味を持たなくなった。欧州の小国ギリシャの経済破綻が、かくも大きく欧州経済の根底を揺さぶるとは思えなかった。さらに経済の大きな極である北東アジアをかくも揺さぶるのかと驚いた。アメリカ発で押し付けられたグローバルスタンダードは、多くの国でバスに乗り遅れまいという心理から無理やりだったにせよ短期間で定着した。しかし、金科玉条のごとくに浸透したグローバルスタンダードが、世界に平和と安寧をもたらしたとは、正直いい難い。

 

昨年も震撼させた新型インフルエンザは、フェーズ6に警戒態勢が長くされてきた。風疹やマイコプラズマ肺炎などの感染症も流行し、感染症対策も本格的に空気感染対策に乗り出す必要も出てきそうだ。鳥インフルエンザもいつ発生してもおかしくない状況。先が見えない世界にあって、安全安心な暮らしには、個人や家庭で備えておかねばならないことも実に多い。

富や栄華も実は、危うい仕組みの上に載っているものに過ぎないように思う。

熱いハヤブサ2.論議

生活

 ハヤブサが、暗黒の宇宙を満身創痍で幾度もの絶対絶命の危機を乗り越え戻ってきてから、しばらく時間がたった。その科学的成果もすばらしいが、閉塞感に苛まれていた人々に熱くもたらした感動は、未だ冷めない。

ハヤブサが、長い旅の果てに燃え尽きながらも、生命線のカプセルを予定通りに帰還させてきたことには、「当初から予定通り」だったとか、「予定を遥かに遅れてのこと」だからとか好き勝手にものを言う人も多い。だが、天文ファンの少年らが、「頑張って戻ってきたのに、燃え尽きてかわいそうだと」泣きじゃくっていたという話を聞くと、感情移入されたハヤブサには、もはや人格が備わっているに違いない。

その昔、鉄腕アトムに感情移入した小生の少年期、鉄腕アトムの死を単にアニメのストーリーとして受け止めることができずに、その死の衝撃から学校を休み、担任とひと悶着があり、長く登校拒否をした。思うに、亡くなったのが、ただのロボットとは思えないほどの思い入れがあった。衝撃度から言えば、生まれて初めての身内の死のようなもので、喪失感が大きすぎた。

鉄腕アトムを単なるアニメのロボットキャラクターと受け止めたような御仁には、今世紀、世界に先駆けていち早く、二足歩行をするロボットを実用化したHONDA日本人技術者の熱い気持ちなど理解できまい。ロボット犬アイボを実用化したのは、戦後の神話を作ったSONY。愉快で闊達なる会社を作ろうと創業された会社。荒廃の日本の地から、トランジスタラジオを引っさげ、ニューヨークに乗り込み席捲した会社。SONYがなければ、今日のサムスンやLGなどアジアの雄も生まれなかったかもしれない。アジアの人々のアイデインテイテイを自覚させた会社。また、二足歩行のロボット“アシモ”を作ったのはHONDA、初めてみた自動車の排気口に良い臭いだと鼻をつけて、「世界一速い自動車をつくるのだと」七十余年をかけて実現した宗一郎少年の興した会社。一時は、自動車振興策によって四輪自動車の生産を断念させられそうになった会社。

 

小惑星イトカワは、大型タンカーほどの大きさと聞いた。地球から3億キロ。地球をソフトボールにたとえると月は、3メートル先の10円硬貨。イトカワは、7キロ先の粉粒程度という。エンジン故障、燃料漏れ、通信途絶を乗り越え、予めいざという時に別々の回路にしておいたエンジンをつないで戻ってくるなど、艱難辛苦に耐えて走るマラソンランナーを見るようで涙を禁じえない。血も通わない機械がこんなに大きな感動をくれるとは。

後継機ハヤブサ2.の予算化やその執行に気をもむが、単なる文教予算と考えずに、国内外で試練に立ち向かう日本人を鼓舞する予算と考えてもらいたい。

無限の豊かさ

生活

先ごろ、小生が所属する水墨画会団体に東大大学院で建築学を専攻する女性研究者が入門されてきた。バルト三国のひとつラトビア出身者で、日本語はほとんど話せない。英語を共通言語にして、日常会話はなんとかなりそうだが、水墨画の背景となる日本文化や東洋思想をどう伝えるか?苦心しそうである。

東京都内にある国立博物館美術館は、収蔵する国宝の展示を定期的に行っており、美術ファンはよく水墨画を眼にする機会は多いようである。しかしながら、水墨画を見たことがあっても、どのように描くのか知っている人は極めて少ない。墨をすり、その濃淡を水で調整し、紙の上で如何に筆を運んで描くか。それが、作家の技量や感性の見せ所となる。小生の所属する会では、主宰以下、ほとんどの門弟が同じ墨、同じ筆、同じ紙を使って描くのだが、生まれ出る作品は百花繚乱。墨の濃淡だけで描かれるのに、秀作といわれるものは、絵の中にある風や光や空気や音までも感じることができる。

墨色は、「五彩を兼ねる」といわれる。ここの五は、陰陽五行説の五だろうから、森羅万象を墨の濃淡で描けると、更に墨は濃淡をつけることによって、墨色は百にも千にも万にもなるといっているに等しい。

所属する会では、墨を使っていれば墨画というカテゴリーに入れることを認めている。門閥閨閥に偏った評価を一切行わないのが会是であり、他の流派の方でも、基準を満たしていれば公募作品として受付けさせていただいている。今年も北米と南極以外の大陸から、国際公募作品がにぎやかに揃った。

北アフリカは、ガンビア国(セネガルの内陸に広がる国で、テレビドラマ“ルーツ”の舞台となった奴隷貿易で歴史に名を残す)へは、会で特訓を受けた方々が、毎年、秋口から現地に赴き指導を行っている。基本的な画題の四君子(東洋の代表的な四つの花)~蘭竹菊梅~など見たこともないとおもうが、日本で定めたカリキュラムに従い、一通り学んでいただいている。その上で、展覧会には好きな画題で自由闊達に、個性豊かに描いていただいている。

 

墨の濃淡だけで描く世界。実際は、無彩色で北アフリカの人々が描いた絵なのに、眺めていて不思議に感じるのだが、実に豊かな風合いがあるのはどうしたわけだろうか。モノトーンの深い浅いではない。明度、彩度の問題でもない。墨の濃淡で、この世界の光から闇までのすべてを描き出せそうな雰囲気が現実にあるのだ。これは、まさしく「墨色は、五彩を兼ねる」というにふさわしい。

また、技量だけでなく、自然に対する造詣や家畜や家族に対する愛情が、作者の思いや願い祈りといったものを濃く伝播させるのかも知れない。墨の濃淡だけで描かれた母親や子供、牛や鳥の絵の中に、作者の人柄がにじみ出ているように思える。墨の濃淡だけでなく、滲(にじ)みや擦(かす)れを生かして、自らが生きるこの世界を表現。さらには、この世界で起きたことの伝承、伝説、加えて近未来なども想像して描く。上級者になれば、紙の白を生かしつつ濃淡だけでなく、粒子の細かさなどにも気を配りながら調墨し、森羅万象も描ききろうとする。墨と紙を駆使し、白い紙の上に表現するだけのことなのに、色彩のない不自由は一切感じられない。

 

水墨画は、もともと宮廷に仕える絵師らが皇帝にお見せするために描いたものであって、中国の水墨画(国画)は選ばれた人のみが観賞し、選ばれた人のみが描くという高尚な芸術だった。

宋の時代に日本へは、学僧らから禅や茶とともに伝えられたが、安土桃山時代の築城最盛期に障壁や屏風などの需要が多くの作家を育てた。さらに、長い鎖国が独特の画法描法を生み出した。

 

水墨画と同じく、中国大陸を源にする文化芸術は実に多い。

というより、漢字自体、あるいは漢字を基にした仮名文字自体が大陸から伝わったものだから、経典なども含めて大陸の影響は、伺いしれないほど大きく深いものだろう。

 

地政学的なこともあり、摩擦は今後も起き得ることに違いないはずである。

だが、隣人としてお互いを無視してことを解決できるものでもない。同根であっても、違った発達を見せる文化を照らし合わせながら、問題解決を探るのも

大きな智恵の発揮にならないものだろうか。

 

地域福祉らしい仕事“見守り”

生活

 ここ2年ばかり、自治体と警察が取り組んできている事業に注目している。

実は、「万引きに手を染めた高齢者ら」が犯行を繰り返すのを防ぐために、警視庁は自治体と支援対策を2年前の秋から取り組んでいる。万引きにいたる敬意に注目するとこの事業の本質が理解できる。

高齢者の万引きの背景には、「貧困」や「孤独感」、「生きがいの無さ」が犯行の動機になっている場合が多いという。再犯を起こさせないために、社会参加活動や生活保護、給食などの幅広い支援を行い、防止策を講じる。社会参加活動などを盛り込んだ万引き防止対策などは、警視庁によれば全国でもこれまで例の無かったことらしい。

「生活保護」や「給食」などの福祉サービスは、行政の仕事だが、防犯に繋がる「地域の見守り」や「地域活動参加」への呼びかけが必要である。

対策では、都内でモデル地域を選定、50歳以上の容疑者から関係機関から支援者を選出し、事情にあった支援を区や市などと連携して行う。具体的には、

生活困窮者には生活保護や生活資金の貸し出し、生きがいのための生涯学習や社会奉仕活動、独居者や身寄りの無い人への配食サービスや町会の見守りと言う具合に警察署員や自治体、地域団体、地域NPOなどが連携し、福祉サービスの受給や活動参加 ができるようにしている。

 

防犯対策を担う地域団体や地域NPOの役割は大きい。

犯罪の背景になっている「孤独感」や「生きがいの無さ」といった内面の問題に踏み込み、再犯を起こさせないとすることは簡単なことではない。生活の場としての地域で、身近な組織として高齢者に寄り添うばかりでなく、相談受付、問題解決などの機能を十分に高めなければできることではない。

自然発生的に生まれた地域NPOは多いと思われるが、高齢者の再犯防止で

期待されることは、システムとして機能することよりも、地域NPOに参加する

勝動者のヒューマンウェアに期待して成り立つ対策である。大いなる社会実験に期待を大いにしたい。

警視庁の統計によれば、万引き摘発を行った65歳以上の高齢者は、1989年には266人で全体に占める比率が2.5%だったが、2009年には3,110人となり22.9%に急増。2010年の1月から4月の調査では、高齢者の再犯者の51.4%が「生活困窮」を動機として回答しているとのこと。

警視庁調査研究委員会による分析結果では、万引きする心理的要因として高齢者の24%が「孤独」、8%が「生きがいがない」と答えているという(複数回答調査)。地域が、生活困難な高齢者の人生を照らす灯台であってほしい。

消費税論議2.

生活

 先の本コラムで消費税のことにふれた。やはり、納税者の財源問題についての意識は高まっており、消費税の問題点をもうすこし掘り下げることとした。

先の本コラムでは、滞納された国税の中で一番多いのは消費税と紹介した。

2009年度に新たに発生した国税滞納税額は、“7千4百78億円”。このうち、3千7百42億円が消費税による滞納分であり、国税のおよそ50%に相当する。

消費税が、滞納税額の大部分を占めるようになったのは、1990年代後半に遡る。このときにすでに国税滞納税額の40%を占めている。悔やまれるのは、そのとき原因に応じた処方箋を出すことは可能だったと思われることだ。改善されぬまま深く痛みの残る病根が残ってしまった。

消費税は、販売価格に賦課され、購入するものが価格に応じて一定率の負担を行う。このとき販売業者は、購入者から消費税を預かった形になり、消費税の申告を経て納付することになる。滞納税者は、最終的に消費者に販売したものであり、納税を速やかにできない者は、預かった納税額を使い込み、納税を行わない不道徳な輩かといえば、そうは簡単に断定できないところがある。

つまり、力の弱い中小零細企業は、「価格に消費税を転嫁できず、自己負担せざるをえない実情」があり、それが積もり積もって、国税滞納税額の約50%

に積みあがっている大きな原因とも言われている。

消費税の増税や徴収の方法論のみに国会の議論や巷の関心が及ぶようであれば、税制の大きな波間に漂う中小零細企業は、やがて来る消費税増税の大津波に呑み込まれ、社会の一端から大きな崩壊が始まるのではないかという危惧がある。

 

平成の初めに福祉目的税なるものの創設が提唱された。制度設計について、十分な議論もないまま今は忘れ去られている。継続的な安定した財源がなければ、少子高齢社会の屋台骨を形成したり、大黒柱を立てることなど出来まい。

成熟した先進国の常識として、税の直間比率の均衡をいかに図るかという問題がある。「税は、国家なり」ということばもある。野党経験の長かった現与党政権も、提唱する税と社会保障との一体改革も急がねばならないが、歪な税負担の落とし穴に、自ら嵌まってもがき苦しむ人々の救済も急がれる。

税を負担させる根拠に、「担税力」というものがある。多く販売し、売り上げたものには税を担う力があるから税を払わせるということである。願わくは、「担税力」が「納税適状」であればよいのであれば良いのだが、中小零細企業は、「担税力」があるとされていても、実際は「納税適状になく、課税適状にもない」のである。支出や無駄削減では、解決に追いつかない問題である。

消費税論議

生活

 近年の国政選挙では、税制に対する基本的な考えを候補者は問われる。「直間比率の是正」から始まる建前の説明で済むうちは良い。だが、「子ども手当て」に代表されるような国民の期待の大きい政策の財源については、適当な説明が許されない。景気浮揚や国外からの投資促進や日本国内からの産業資本の国外回避を阻止するために、「法人税の税率引き下げ」を公約に言い出す議員も多い。果たして、その効果はいかほどだろうか。実は、法人税率引き下げは、思うより効果がない可能性が高い。なぜならば、法人税を納付している事業所は、好景気でも法人全体の50%に届かない程度であり、不景気の時は、一気にその比率が下がる。この失われた20年で、法人税を一貫して支払い続けてこられた法人数は、大企業や超優良企業のほんの一握りである。

法人税は、所得税と同じで、事業によって獲得された「純財産の増加(正味財産の増加)」部分に課税される。乾いた雑巾を絞るような節約や智慧を絞って開発した商品を生み出しても、優良な輸出企業とて、「円為替の大幅な高騰」や「レアメタルや原油の高騰」、「穀物の高騰」などで黒字など簡単に吹き飛ばしてしまいかねない。

 

財源の安定獲保が至上命題だとすれば、誰にも漏れなく課税できる「消費税のような間接税」で財源を確保できることが徴収上技術的にも望ましい。ただ、この論議に関しては、社会的な弱者への配慮が欠かせない。消費税の先進地域である欧州では、税率25%程度は、すでにポピュラーになりつつある。高税率に慣らされているというよりは、「必需品には、免税や税が薄く」、いわゆる贅沢品には高税率が課せられており、再分配に対する理解やそのために必要な仕組みや人材登用に理解が浸透していると思われる。たとえば、我々日本人が欧州の観光地に旅行に出かければ、旅行自体が贅沢な買い物をしているとみなされるので、高い消費税負担を御願いされるということを認識すべきである。他方、高齢者やハンデイキャップを持つ人、乳幼児や未修学児童などに対しては、彼らの必需品に対して課税面や税収入の再分配による恩恵が明確である。

日本でも、移行時には混乱があるかもしれないが、一律に課税するという考えを改めて、実情に応じた課税システムを検討すべきではなかろうか。日本の技術力をすれば格別に問題はないだろう。

 

さて、日本における「税の滞納で一番多いのは、実は消費税」である。相続税や固定資産税は、課税標準が明確で遅延はあっても徴収に漏れがない。国会は、税率の議論の前に、本来、納税者からの預かり金を資金繰りに回している実態を精査し、金融政策で解決できる問題か否かも見極める必要があるだろう。

命を賭しても

生活

 私の好きな著書に城山三郎の「男児の本懐」がある。主人公は、ライオン宰相と親しまれた時の首相浜口雄幸と実務と弁に長けた大蔵卿井上準之助である。生まれも育ちもキャリアの積み方も全く異なる二人が、日本の将来を見据えて財政改革を断行する。覚悟して緊縮財政を断行するも、徹底的に反対し軍備増強を図る軍部と衝突する。また、私利私欲に走る輩と勝手な理解をする右翼団体からも命を狙われる。それでもひるむことなく、文字通りもっとも大切な命と差し替えてもとの強固な意思が明確で、命を賭してもと心に誓い、信念に従い二人は突き進む。

 

浜口雄幸は、昭和5年に過激な右翼青年の銃によって撃たれる。九死に一生を拾うが、「総理としての国会での質疑応対の責任を問う」野党党首鳩山一郎に再三再四にわたる国会登庁を促され、体力の回復もままならぬまま登庁し、誠実に対応したが、狙撃された日から半年も経たないうち体調を崩し逝ってしまった。弾を摘出する時に、腸を長く摘出され、登庁後の激務に体力回復が叶わなかったのだろう。後に首相となった「友愛」の鳩山一郎氏のことである。

再三再四登庁を促すのでは無く、体力がなければ国難を越えられないので、一端退いてはどうかと申し入れた方が、より相応しいと思うのは余計なことだろうか。いずれにせよ、時の首相が凶弾に倒れるといったことが合ってはならない。他方、盟友井上準之助は、命を狙われている覚悟をして選挙の応援演説に出向き、昭和7年に過激な右翼青年の凶弾に斃れてしまった。盟友、浜口雄幸の意思を継ぎ、なお命を賭して、自らの信じる道を指し示して遊説していた時のことである。彼らは、日本の舵取りを託された時から明らかに死を覚悟していた。遡ること80年の昭和の時代の話である。

狭量な利己的信念からではなく、二人ともエコノミストとしての理論武装だけでもなく、現場の経験を踏まえた智慧と類稀な行動力と意思を持っていた。

二人の日々の戦いは、孤独を強いられるものだったかもしれないが、命を賭して本気で戦う同士がいたことは、お互いにとって幾千万の味方を得たような心地だったかも知れない。

井上準之助は、二度の日銀総裁経験者であるが、その死を悼む海外の有識者

の声は多かった。軍拡に走る軍部の専横を経済政策で押し込もうとしていた意思は広く理解されていた。他方、狭量な国粋主義者やごく普通の国民には理解されていなかったのかも知れない。経済の仕組みを理解できず、国際情勢を知ることもなく我見に固執していたとしても責められないだろうが、近代化を目指して走りぬけた日本の歴史が流した血と涙である。稀代のエコノミスト二人が、天寿を全うしてくれていたら、後の軍部の暴走も止められたかも知れない。

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