12月2012

ECONOMICS

生活

云い古いされたことをひとつ。

「経済」と福沢諭吉翁に翻訳された“ECONOMICS”は、本来、家計に由

来するとされる。家計は、基本的に「消費経済」である。仮に家計のすべて

夫の「給与収入」のみで賄おうとすると、給料日にフローの資産が最大限に

なり、次回給料日の直前までそれが減り続けることとなる。

企業活動を基本と考えて、個人事業主も含めて「事業収入」に置き換えて

考えると、常時正味財産が少しも休まず増減していることが分かる。信用販

売で掛売上が発生すれば、債権たる資産が増えるが売った分だけ商品金額だ

け資産も減る。このとき借方と貸方の差額が未実現ながら利益になる。営業

活動をすれば、交通費や販売管理費が絶えず支出・計上され、現金が支出さ

れれば現金支出分だけ、あるいは費用の発生した分だけ資産が減る。取引先

に商品の注文を入れて、現金買いをしなければ、商品の分だけ資産が増える

が、同時に同金額分だけ負債額も増える。このように絶えず財政状態や損益

の計算は常時増減している。簿記学上は、資産や負債・資本などの取引8要

素に変化があれば、仕訳をおこす、だから損失破損に加え、火災や盗難も取

引ということとなる。

 

公共団体の会計は、議会で承認された予算案に基づきそれを執行し、税収と事業収入によって運営をはかって行くのであるから家計の消費経済に性格が近い。だから、最適効率の予実収支を実現する公共団体の責任者は、「やりくり上手」という形容が一番相応しいかもしれない。家計と同じような性格の財政であるのなら、「お父さんの給料に相当する金額範囲内」や「確実に支給される賞与に相当する金額範囲内」で生活しなければならない。かつて、戦後から高度経済成長期にかけての日本では、やりくり達人のお母さんたちがコンソーシアムを形成。米や手作りの味噌醤油などの貸し借りなどが、津々浦々でよく見受けられた。金融サービスの発展過程でお母さんたちの運営した全国の「無尽」の金融資産総額は、平均的な公共団体の財政を凌ぐ規模だったのではなかっただろうか。いまや公共団体の家計をささえるのに、貸し借り自由な近所の米びつや味噌醤油もない。

 

厭世的になる必要はないが、国の金庫にあるお金は、借金して印刷しているものである。たとえば、国の財政を愁う御仁方が、一万円札を使う時たびに¥9、500だけ使い、あとの¥500を国庫に自主的に納めようとしたら、財政は少しは上向くかもしれない。銀行から緊急避難資金や事業性資金を借りるならともかく、生活資金を借りるような生活は早晩悲惨な結果を引き起こす。始末が悪いのは、祖父母や父母に加え、いまや見知らぬおじさんのツケ払いまで次世代、次々世代にし付けてしまいかねない。少子高齢化は悪い事ばかりではないが、内需の喚起や税収の安定化には、大きな負荷をかけてしまうのは明らかである。そうだとしたら、天下国家レベルの話ではなくて、「家計」に置き換えて、あるいは「家庭教育」や「しつけ」「生活習慣」になぞらえて、効果的な取り組みが出来ないものかと思案しているところである。

 

その昔、政府開発援助(ODA)の仕事で海外に公務派遣され、旧共産国の国有企業の民営化や公営企業体の支出効果分析、そして、本来あるべき政策税制会計を模索したことがあった。それは、合算で12年以上に及んだ。その時の経験や実験、専門家筋から学んだことが多少なりとも役立てられないものだろうかとも思案している。

 

例えば、日本から派遣された専門家は、旧共産国の民主化や自由経済の中で、やたらに合理化を迫った。理屈はどうにでもつけられるだろうが、ようするに大量解雇である。そのような計画が策定するたびに小職は抵抗してきた。「解雇したその人たち」をどこに連れてゆくのですか?誰が食わせるのですか?と。最適効率の経営を考え抜いて挑んだ自分だったが、自他ともに評価が高かったレポートは、直訳で「二人でできる仕事を五人でやって、みんなが幸せになる方法」だった。無くすることの出来ない公共の大きな家の中で、皆の幸せを考えたいと願って祈って、これから話を展開させてゆきたい思う。

 

私達は、結果を選ぶことは出来ないが、最善の行動を選択することが出来る。