12月2012

車力村~わが国の誇らしい国際協力の形

生活

  いまだ、中国や韓国との国交が先鋭化するなか、本来の国際交流について、

思い返してしまう事例がある。青森県の日本海側にそって西津軽地方に車力村はある。というより、あったといったほうが良いのかもしれない。車力村は、西津軽郡に属していたが、現在は、独立した行政単位として存在せず、平成の大合併でほかの村と一緒に「つがる市」に組み入れられている。

村のことは、モンゴルに食糧支援、食糧増産支援のために国際協力業務で派遣され知った。この村は、村という行政単位のレベルをはるかに越えて、わが国の国際協力、国際貢献史上に輝かしく誇らしい魂の金字塔を打ち立てている思いがする。

 

1990年に車力村とモンゴル国の交流が始まるが、最初のきっかけは、当時の成田佐太郎村長が、「第1回新潟・モンゴル友好の翼」で現地訪問したことに始まる。このとき、モンゴル国は民主化をめざし、新しい国づくりに歩み出したばかりであった。なぜ、車力村がカウンターパートになりえたのか。それは、地理的な環境を見ると理解できる。車力村は、津軽地方の西に位置し、日本海の冬のしばれる寒さ、強く厳しく吹き寄せる風、さらに「やませ」による冷害、やせた砂地などと戦ってきた歴史を持っている。モンゴル国の人口構成は、先進国などと異なり若い世代に重心が移ってきている。当然のこととして、遊牧以外にも人口増加定住型の農業も取り入れようと、食料の確保に危機感をもっていただろう。それだけに、数多くの困難を克服してきた車力村は、絶好の教師役ではなかったかと思われる。

 

車力村は、モンゴル国の熱望に応え、交流決定以後、農家や農協と協力し、農業研修生を受け入れる。モンゴル人が日本で研修を受けることは、語学の研修に始まり、農家にステイしての農業体験、稲作や野菜の栽培、畜産研修と文字どおり村を上げての国際協力、国際貢献となった。

風俗習慣が異なる者同士が、理解しあい、知識や技能技術の移転を行うことは、生易しいことではない。しかし、確実な成果の生み出された様子を伺う限り、この村の人々の情愛の深さや心のまことを思わずにはいられない。

さらに恐れいるのは、農業研修生たちがモンゴルに帰国後も、農業技術を学べるようにとモンゴル国チョイバルサンに農業試験場を作るなどしたことである。顕に入り細に入り、万事行き届いている。

国際協力、国際貢献の要諦を小職は老婆心だと思う。この村の人々は、心豊かで、人を憂う気持ちが、ひしひしと伝わってくるようだ。

 

さて、モンゴルのことだが緯度でいえば、北海道のさらに上方にある。

海抜は、人が多く住むところのほとんどが、1300メートル以上にあったと記憶している。夏季に雨が降っても、霙に変わることはごく普通のことである。

冬に、外の天候が晴れわたって気持ちが良いとおもって外に出てみたら、零下25度から30度ということもある。日本では、雪が降り積もって、大地を震るえ上がらせるが、モンゴルでは風が強くて雪が積もらないことが多い。

ほんの一時の夏を過ごすとしよう。朝は、冬と同じく羽毛衣料を着ていてもおかしくないほど冷えこんでいる。しかし、正午になると真上に夏の暑い太陽が照り付け、Tシャツ一枚でも暑いくらいになる。しかし、陽が傾き始めると急に冷え込んできて、厚着を心がけないと寒さで体が動かなくなりそうになる。

 

モンゴルは、年較差、日格差ともに大きな大地である。

穀物類が作れるのであれば、旨味が閉じ込められた良いものができるかもしれない。事実、モンゴル産の蕎麦は韃靼(だったん)蕎麦~「韃靼とは、タタール人を意味し、遊牧を行う馬を乗りこなす民たち」を意味する。~は、同じ種類の植物であるのにルチンの含有量が、日本産の100倍以上もあり、美容と健康によく、重宝され、また愛されている。

しかし、このような土地で米を作ることを考える人がいるだろうか、気候が厳しいだけではない。良い蕎麦ができるということは、それだけ土地に滋味がないということでもある。

しかし、車力村の人々は、ためらうことなくモンゴルの大地に米を実らせることに挑戦した。(「モンゴルに米ができた日―日本の村の大きな国際協力」~金の星社 1997年 鈴木喜代春著 に詳しい記述がある。)

気候が厳しいだけではない。大量の雪が降り積もり、雪解け水が大地を潤すような場所でもない。地下水脈が無尽に広がるわけでない。そんな場所で、請われたことを理由に米作りに村人は打ち込んだ。そして、成田村長が、協力を請われたときから3年後、オムノゴビ県にモンゴル史上初の米が実った。

 

車力村の偉業は、後に車力村モデルという言い方で賞賛されるようになった。

国際協力の先頭に立つべき日本国の指導者らは、本来、国が行うべきことを

東北の農村の人々がやり遂げたという事実を重く受け止めるようになった。

以後、国際協力の仕事に従事するものの間では、国際交流の意味や目的を問うときに、車力村の名前が必ず挙がるようになった。当時、人口7000人の村が、人口240万人の進むべき未来を指し示し、励まし、困難を克服し、自立した農業のあり方を実感させたのだ。熱い思いにあらためて敬意を表したい。