1月2013

あら楽し 思いはるる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし

生活



「討ち入り」は、本来、旧暦の12月14日のことだから、新暦に置き換えると毎年新年1月のほぼ半ば過ぎになる。今冬の場合は、明けて新年1月25日になる。冒頭は、大石内蔵助の辞世。仮手本忠臣蔵が、かなりの史実をデフォルメして作られていることを差し引いても大石以下に学ぶところが多い。意外に思われるかもしれないが、彼らは、危機管理手法や計画立案、戦略、戦術、戦務に優れていて、大いに学ぶことが多いのだ。危機管理が、肝心なときに出来なかったのは痛恨の極みである。しかも、原因が主君の刃傷沙汰というのがなんとも痛ましい。

 

事が起きたのは、元禄は旧暦の3月も半ばのことだった。命が萌える時節、

「ご法度」を犯したとはいえ、十分な御取調べもないまま、腹を召され、命を散らす事になった浅野匠頭。このことは、これまでも歴史ドラマや映画で繰り返し語られてきているので、ことさら触れるつもりはない。関心があるのは、むしろ周辺事情である。



「江戸」から「赤穂」まで正確には何キロあるかわからないが、地図で見る限り650~700キロほどとおもわれる。当時は高速交通網もなければ、道路自体が未整備な状態である。だから早馬を仕立てても、飛ばせる区間は知れている。馬が走れないところは、駕籠屋に頼るしかない。山あり谷あり峠あり

である。どんなに急いでも全工程の走破は、1日100キロにしても、7昼夜程度かかる。「松の廊下の刃傷沙汰」が起きたとき、すぐに早馬を飛ばさせ、4昼夜で赤穂に第一陣が届いた。切腹もすぐに決まったので、第一陣到着の翌日には第二陣が届いた。これは、かねてより馬を借りられる処、宿場ごとに信頼できるいくつもの駕籠屋と厚誼があったからに他ならない。「御家一大事の時だから、一刻も早く」であって、旅籠に留まる時間的余裕などないが、懇意にしている旅籠には、夜中であろうが未明であろうが、足を洗う桶や御湯、そして風呂や握り飯などいつでも用意してくれていた筈である。そうでなければ、650~700キロを当時100時間以内で走破は不可能な数字である。

 

さて、「第一陣」「第二陣」の必死の使者の走破を助ける「影の第一陣」の存在がある筈であり、歴史の表舞台に出ることなく狭間に埋没している。つまり、真新しい鉢巻と襷をつけた使者の「第一陣」が走り出す前に、街道を「後から御家一大事の使者が走り抜けるので、何卒、良しなに」と街道の見知った旅籠、駕籠屋などに、ふれて頭を下げて回った者がいる筈である。主家の無事の間は、数百年もの間、かような勤めがあるかないか分からないが、またあってはならないが、「もしものための時の最も大切なるものは何か?」

 

いつ何時、起こるか知れない自然災害も同じこと。神戸淡路大震災は、

冬の土用の初日(地球の地軸がずれ易く、古来より建築などを避けられてきた土用:土用は春夏秋冬のいずれの季節にもある)だったことも、忘れてはなるまい。

 

ところで話を大石忌に。

かつて元禄の時代に赤穂藩の筆頭家老は、世を欺くために京の一力茶屋で遊興に呆ける。身内さえも欺くための遊興ならば、諌言や辛らつな批判も多かったことに違いなかろうに。その心中を察してあまりあるというもの。



さて、大石が遊興の限りを尽くした一力茶屋。宿願叶ったときから、一力茶屋は今日まで大石忌を執り行い重ねてきている。実に天晴れな茶屋である。