1月2013

希望を語るということ

生活

 如意吉祥。どうぞ、皆様それぞれの思い、願いがかないますように。

發財恭喜。財産がいよいよ富み、喜ばしいことが続きますように。

大陸からの年賀状には、そんな願いが書かれていることが多い。

 

年が、あらたまっても暗澹たる思いで日々戦っていらっしゃる方も多いこと

だろう。近年の経済問題は、地球規模で対策しない限り、どうにも改善しない

ようで、地球市民全体が、気持ちをあらため、強く心深く期することが必要な

ようだ。

良い時ばかりでなく、大きな国難があるときや地球規模での難がある

時、年があらたまることの功徳は、どのくらい大きいのかも知れない。

無量無辺のように例えては可笑しいだろうか。

 

小職の身に遡ること四十年。ある教育者の言葉が、今もこの胸に響いている。

一番、印象に残っている言葉がある。それは、「教育とは、希望を語り誠実の文字を深く相手の胸に刻むことである」と。そして、その人は、私に対してそのようにありたいといってくださった。まこと今日の私は、全くもって不徳のいたすところと恥じねばなるまい。

 

先ごろ、「坂の上の雲」のNHKドラマについて思うところを本コラムに書いた。秋山家の長兄好古は、「一身独立」を掲げ貧乏士族から身を起こしてゆくが、

後の日露戦争にてバルチック艦隊を撃破した参謀秋山真之を導き、自らも世界最強のコザックに騎兵隊を率いて挑み撃破する。彼の体を壊してしまうほどの熟慮や閃光のように行動する胆力にも驚嘆するが、本質は自らを律することも含め「教育」の大事にあるように思う。喰うに困るような少年期であって、糧を得るために汗を惜しまず、書にも親しみ好機が来ることを信じて努力をする。見事というほかはない。好古は、陸軍の要職を辞したあと、故郷に戻り、私立中学の校長を勤める。「一身独立」の若者を育成したかったのだと思う。私立の中学であるのは、家が貧しくても勉学の機会が得られるようにと特待生制度を考えてのことではないかと思う。

国の指導者は、教育者ではないが自らの信条に従い、大いに国民に「希望を語ってもらいたい」。また、率先して国難にぶつかる気概を見せつつ、ことに当たって「誠実の文字を善良な国民の胸に刻みつけてもらいたい」。日本国民は、ほしがるだけにあらず、将来を見据え、子々孫々のことを憂いている。遺せるもので、たとえ本質的に無償の贈与であるとわかっていても、税金がかからないのは「教育」だけである。身についた希望や誠実は、奪われることもない。