1月2013

なぜ、NPOやNGOは必要なのか。

生活

 今回はNGO、非政府機関について必要性を考えてみたい。

21世紀に入る頃、なにかと20世紀の総括が頻繁に行われた。20世紀にキャッチフレーズをつける作業である。国際機関が、一番納得したフレーズは、「戦争の世紀」だった。どうだろう、意外に感じられただろうか。司馬遼太郎の「坂の上の雲」。秀逸な明治の群像を描いた作品だが、日清・日露戦争にどのように向かい合い、いかに準備を行い闘ったかを語る貴重な多くの資料の裏づけもある。そのため、戦略・戦術・戦務レベルの行動に詳しく組織人のバイブルともなっている。日露戦争は、歴史に対する日本人の思い入れもあるのだろう。かなり大きな戦争だという印象が多くの人にある。しかし、20世紀に起きた紛争や戦争は、日露戦争規模に計算して70回以上あったといわれる。



20世紀の殆どの戦争は、「民族自決主義」的な戦争であり、国益をかけて闘う大義名分がはっきりした戦いであった。戦争に良い悪いは本来ないと思うが、「国家と国家」「民族と民族」とが自らの存在を問う戦いだったといえよう。20世紀の初頭から、国家や民族はとにかく戦争に次ぐ戦争に浸かりきっていた。戦争や紛争は、先進国や途上国、後進国に限らず、様々に起きた。いや、頻発していたとか、定期的に衝突していたという印象である。だから、第二次世界大戦以後、日本だけは奇跡的に半世紀以上戦争渦に遭遇することなく平和を構築できたと考えたほうがよさそうである。

 

未だ、忌々しい記憶の残る9.11やアフガン・イラク戦争。思想の背景に宗教の影響がはっきりしていたとしても、「国家と国家」「民族と民族」の戦いの構図は見当たらず、テロは始まりも終わりもない一方的な暴力的な戦いだといえよう。「国家と国家」「民族と民族」の戦争や紛争は、国益や民族益を問う問題であり、国連をはじめとする国際機関も調停にも力を発揮できた。テロを非難する事が出来ても、テロリスト達の実態や本拠地も明らかに出来ない。話し合いの機会をもつことさえ出来ない。意思の伝達は、メデイアだよりの色彩が強い。解決の道筋をつける処方箋より、混迷の度を増す印象が強くなる一方である。

20世紀を「戦争の世紀」と総括した賢人達のなかに、21世紀の初めに期待を込めてこの世紀を「人道支援競争の世紀」と名づけた人々がいた。人道支援競争の言葉には、期待と希望を込めた心情以上の意味があると考えている。

先に、現在の国際テロに見られるように、問題解決の処方箋に「国家」や「民族」同士や「国際機関」の主導するものが有用でなくなってきている以上、「非政府機関」つまりNGO組織の果たす意味は大きく、また存在感を増している。

 

NGOは、非政府組織である以上、国益や民族益といった狭量なナショナリズムやポピュリズムを排除しないと成り立たない組織である。また、民間人が信頼を醸成しながらネットワークを構築して運営する組織である。財政的には、運営は厳しいが、利害が複雑にぶつかり合う調整には都合が良いことだろう。

主権の存在は別にして、国際の「際」自体が危うい。インターネットの情報やウイルスを例に取るまでもなく、人の思惑や願いは簡単に「際」を超える。AIDSや鳥インフルエンザの問題は、単に国家レベルで解決できない領域にある。経済犯罪や経済問題も同様である。反対に「際」が問題の解決を阻むものは、「人権問題」ぐらいではなかろうか?

 

UNHCR(国連高等弁務官)時代からの緒方貞子氏は、「人間による安全保障」を提言してきた。そして現在、それは、日本国の安全保障政策の根幹とまでなった。国連で最も重要な機関は何かと問われて、大方の人は安全保障理事会と応えることだろう。安全保障問題は、「国家と国家」あるいは「民族と民族」の問題であり、国際機関が調整すべき問題であった。しかし、解決のスキームが崩壊した以上、これに頼った解決は困難である。いまや安全保障理事会では、「制裁決議」と「武力行使決議」に専門特化した機関のようでもある。「国や国を構成要因とする組織」が安全保障で機能しないことは由々しき問題である。

「人間による安全保障」とは、最終的には個々人の良識による解決を望んでいる。そして、なによりも国家の枠を超えて、良識ある行動をする集団に期待をしている。戦争を良識ある市民のネットワークによるファイヤウォールで封じ込めることを期待している。そして、その実、有用である。

 

超大国アメリカは、国益に叶わない戦争終結や地球温暖化対策に腹立たしいほど消極的である。その一方、NGOの存在感は増す一方である。戦争終結のために世論を形成し、環境対策を行い、政府と異なる意思と行動でNGOは世界を動かしている。アメリカの2大圧力団体は、アメリカライフル協会とアメリカ退職者協会である。日本でも、団塊世代の存在が年々歳々増している。待できそうだ。