1月2013

木曾義仲のこと薩摩のイモのこと。生まれ育ち、教養。

生活

 木曾義仲は、勇猛な武将に違いないが、品が無く無骨な武将のように描かれることが多い。その木曾義仲は、寿永三年一月二十日に非業の最期を遂げたとされている。(旧暦では、今年の元日が二月十日になるので、今年に限っては

三月も二日あたりになる計算。)源氏が、平氏を追い詰め、覇を唱えるに義仲の

働きはそれなりに重要であり、武功もあったと思うのだが、如何せん行儀がわるかった。

 

勇猛な義仲は、平家討伐に活躍がめざましかったと信じるが、都のしきたりや文化に疎かった。そのため、方言丸だしで物言いが粗雑。万事、素行の悪さが目立ち、そのことが原因で殿上人達に疎んじられ、始末には従兄弟の義経に討たれることとなる。言行が、先天的に粗雑な者などいない。都で生まれた義仲は、幼少の時に父に死別し、信州の中原兼遠に引き取られ育った。このように書けば、信州の方は気分を害されるだろうが、当時の都ことばや風俗習慣からすれば、信州の言葉を丸出しにする無作法者の所作は、都人には看過できなかったのだろうと想像できる。都大路を牛車で暴走させたことにしろ、他の不行跡にしろ、義仲にしてはたいした事ではなかったと思う。義仲の名誉のためにも至極、残念である。

 

話は変わって幕末、江戸城明渡しの時のこと。

幕府方の勝海舟安房守は、火消しの親方辰五郎などを使い、薩摩のイモ(芋侍?)が江戸を落としたら火を放つように言い含めていたと聞いている。勝安房曰く、薩摩のイモらは、無教養で粗雑、江戸の小綺麗な女性を見たら乱暴の限りを働くだろうと言い切っていたという。後の長岡、会津や五稜郭の戦まで含め、小職の知る限り、薩摩のイモらが女こどもに乱暴を働いたと聞いた事は無い。乱暴を働いたのは、西国のある雄藩のサムライもどきの連中である。後に西郷南洲翁と打ち解けた勝安房は、自分の思い過ごしに気がつく。元禄以降、旗本連中の体たらくは、甚だしい。勝安房は、多くの友朋らが四書五経を読むどころか、ろくに漢字が読めない者がいることを知り愕然とする。他方、普段、薩摩では晴耕雨読に勤しむ半農の下級武士らが、全員、酒井雅楽守(うたのかみ)と書いてあるのを正しく読めたことが衝撃的だったようだ。「薩摩のイモに負けるはずだ」と自虐的に側近に話したという。

小職は、薩摩の産である。島津の家老らは、蘭語と漢語に通じていて(バイリンガルが家老になる条件さった)、海外事情や地理に明るいのが普通なのだが、木曾義仲同様に、粗雑粗暴な僻地人のように思われていたのだろうと思うと先人らが気の毒である。

 

半農の下級武士にも特筆すべき人物はいた。中村半次郎、後の日本陸軍最初の少将桐野利秋は、西郷南洲翁に学びたいと貧しい暮らしの中で、開墾して収穫した形のよい「芋」を土産に持参する。

南洲翁の年の離れた弟らは、中村半次郎の持参した芋を「屁の元」と嘲笑する。南洲翁は大いに憤り、「これは、半次郎どんの丹精を頂戴した」と礼を述べ、

「半次郎どんを笑う者は西郷の縁者ではなか」と言い放つ。半次郎は、このとき「こみ上げる熱いものをこらえ、生死をともに」と誓う。教養とは、いったい何かと静かに思う。

 

その昔、中国で長く政府開発援助(ODA)の仕事で公務派遣されていたのだが、親しくなった山東省の市長が鹿児島にいってみたいというので、許可が下りるのに1年近くかかったが(中国は公職の身分の高いものほど海外出張の許可が下りにくい)、なんとか故郷にお招きできた。

 

鹿児島のお菓子には、特産ということもあり、また戦時中の食糧難の先人の苦労に学ぶという気風もあり芋のアイスや飴、せんべい、ケーキやクッキーなど好まれて買い求められる。

よかれと思い、市長や共産党書記にそれらを勧めたが、「これは豚のえさじゃないか」とつき返された。いわれて、「不愉快な思いをさせたのであれば、もうしわけないです。しかしながら、私はあなたのいう豚のえさを食べて大きくなったのです」といわずにおられなかった。

 

その後も形どおりのお付き合いは続いているが、国交がきな臭い情勢になってくると、国際交流の成否は、ゆきつくところ、あらゆるレベルの私人同志の交流で得たお互いの印象の総和が影響するのだろうと思われてならない。