1月2013

“不便”だけど、“不幸”ではない

生活



最近のテレビ番組は、行きすぎた脚色で視聴者に阿るようなものや出演者を愚弄するようなものもあり、不快な気分に陥ることがある。他方、思い切った映像作家の起用や異色プロデユーサーに任せることによって、これまでに無いきわめて秀逸な作品も生まれ出でてきていることも事実である。



2008年に視聴したNHKのテレビ番組のなかで、衝撃を受けたものがあった。冒頭のことばの「“不便”だけど、“不幸”ではない」は、番組中の会話である。



マラソンランナーの福原良英さんと、プロのソプラノ歌手で妻の理絵さんの間にもうけた長女・立春香ちゃんは目が見えない。次女・明葉ちゃんの視力には障害はない。夫婦の目の病気は遺伝性のもので、遺伝することを覚悟して産んだという。



目の見えない夫婦は、「絆」という手紙をもとに、ふたりの子どもに思いを伝える。ふたりには、信じている言葉がある。「見えないことは、“不便”だけど“不幸”ではない。」この言葉の意味を伝えようと手紙に託したのだった。







言うは易し、行うは難しである。目の見えないハンデイキャップが、実際のところ、どんなに大変なことかは、想像すらできにくい。実生活ばかりでなく、人生の様々な選択にも大きな壁となって立ちはだかったはずである。「“不便”だけど、“不幸”ではない」ということばは、ガツンと後頭部を殴られたような衝撃があった。この父母のすばらしい行状や境涯は、また語り難しである。





夫妻は、ハンディを克服する中で、様々に隠徳を多く積まれたことも事実



であろう。夫妻の生き様をいかに詳細に説明するにしても、困難を克服しつつ、積極的に人生を生き抜こうとする夫妻の意気込みは、かなりのものである。







さて、慶応義塾の創立者福澤諭吉翁は、明治11年「教育論」で以下のように述べている。







「子、生まれて家にあり、その日夜、見習うところのものは、父母の行状と



一家の家風より他ならず。一家は、習慣の学校なり。父母は、習慣の教師なり。而して、この習慣の学校は、教授の学校よりも更に有力にして実効をそうする」



福澤諭吉翁をして、家庭における習慣こそが、最大の教育であると説いているのである。陸の王者も家庭の次の王者ということであろう。ペンよりも良き習慣は強しということであろう。人間教育の基本こそが、家庭そのものであるということである。言い古されていることばかも知れないが、学校まかせにすることなく、価値有る仕事を父母のもとに取り戻していただきたいものである。