1月2013

歳 寒 三 友

生活

 年があらたまるということは、大変ありがたいことだと毎年思う。

毎歳末ごとに反省すべき点が多く、反省を生かしきれないうちに、新年が明けてしまう。年が新たまると、怠惰な性分であっても、何か良いことをはじめようと試みる。年の初めと終わりには、鬼籍に入った親に代わって、仏に躾を受けているような気分にはなるが、案外に人は、自己変革を行うのにきっかけをいつも必要としているのではなかろうかと思う。いろいろと考えこむうちに

2月になってしまう。

松竹梅。もともと中国の出辞で歳寒三友ともいう。寒さに耐えて常緑、そして花を咲かせるという意味合いから縁起が良いもの。松竹梅になじみのある鰻屋や寿司屋に通った慣れ性なのか、松は特上で、竹は上等という風に理解しがちだが、並だとする梅とて、春を待ち詫びる寒い月夜でも、闇夜で香る梅の匂いが人を励ますことがある。とてもとても並みの花ではあるまい。

 

竹にしても、地表に現れ出でる数十倍の容積で地下に根を張り、地震の時に山が崩れない、家屋敷の被害が少なかったなどと徳も備えている。ましては、しっかりと節を作って伸びる姿は、立身出世を願う人があやかりたい姿か。

 

ところで、松の話。成田屋さんの御曹司のことで一時期、巷間が騒がしかったが、歌舞伎の公演で背景に松が使われることしばしば。正月の初ざらい、踊りぞめで長唄「松の緑」が〃今年よりも千度迎ふる春ごとに~〃というふうにつかわれる。ここでいう「松の翠」は、青々とした松の緑のことをいうのではなく、「松の新芽」のことをいう。「赤ちゃん」を「嬰児(みどりご)」という言い方のごとくである。また、女性の美しくつやつやした髪を「みどりなす黒髪」という言い方もある。ここで言う「みどり」は色というより、生まれたばかりの意味合いである。それゆえ、松の翠は、松の新芽ということになる。今年の自らの計の松の新芽の仕込み具合が気になるところ。

松の内が過ぎれば、あまり見かけなくなってきたが門松をはずす。

門松は、竹の先を切り落としている(鳥総:ちぶさ)。あれは、神々が訪れた時、その先に宿りたもうようにと願ってのことだといわれる。

 

「鳥総(とぶさ)たて船木伐(こ)るといふ能登の鳥山 今日見れば木立繁しも幾代神びそ」:大伴家持

 

善行を重ねて、福運を積んでも長く保たせねばならない。福に禄に寿。どれがたくさんあっても保てるように鳥総を備え、心構えをつくりたいものである。