2月2013

A子に学んだ生きる術

生活

この時期、雪が降るとA子のことを思い出す。

A子は、銀行系の人材派遣会社に所属する登録社員だった。A子とは、彼女の所属する会社の上司とボランテイア活動で共にすることが多く、スキルアップをさせたいので相談に乗ってほしいという形で紹介を受けた。

さてその日、A子から電話を貰った。実妹にかんする相談であったが、「解決能力が、あなたには備わっているから案じるな」と電話を切った。A子には、スキルアップのために簿記会計と英文財務諸表づくりの基礎を教えていた。

 

それは、16年前の97年2月13日のことであった。私は、国際協力の公務出張で渡航を明日に控えていた。そこにA子から電話が着たのだ。A子は、母と妹の3人暮らしだった。父は、A子が小学生のときに亡くなっていた。以後、家計を支えるため、妹のB子は小学生からずっと新聞配達をしていた。足が太くなり、ジーンズがはけないと嘆いていた。妙齢の女性には、深刻な問題だったかもしれない。

ある日、妹の進路のことで進学か就職かを親子3人で真剣に相談し、自宅近くの大学を一校だけ受験し合格した。だが、新聞社の奨学生手続きに手違いがあり、締切まで後1時間という時に電話がかかってきたのだった。記憶が鮮明なのは、この日、東京に雪が積もり、交通機関が混乱していた事による。

A子は、私に当該大学に対し、なにか使えるコネはないかと相談してきた。私は、最も辛いことをA子に指示した。この深い雪の中、外出も出来ずに居るだろう理事長宅に直接尋ねてゆけと。彼女は、私の付き添いを請うたが、ひとりで行けと突き放した。普通の頼みではないのだ。理事長宅まで歩いていったA子は、何度も何度も転んで怪我をし、とけた雪や道路の泥で汚れ、さらに雪まみれになったのだった。私は、辛い気持ちでいた。実は、A子は足が不自由だったのだ。普通の道なら歩行もできただろうが、雪の積もった道は、歩行困難で数歩進んでは転んだことかもしれない。

 

小学校のときに、亡くなった父の死因は自殺だった。それも第一発見者がA子。トラウマがときに襲い掛かり、つらいことが起きると、消極的な生き方を選んでしまう。経験や知識が不十分で、世知辛い社会を生きることに自信がないことや身体的なことがハンデイとなって、人材派遣の仕事も、心優しい努力家のA子は派遣先から直ぐに断られてしまうことを繰り返していた。私は、僭越ながらA子に能力資質が備わったとしても、このままでは、満たされない思いや達成感のない年月を焼き場までもってゆく事になるだろうと危惧した。

 

それだからこそ、雪のつもるさなか、辛くとも歩いて出かけ「三人がどんな思いで今日まで生きてきたか。そして、どんな覚悟で生きてゆくのかそれを理事長にぶつけろ」と、そして「相手に一歩も引かない気持ちでぶつかれ」と

言い放った。A子は、「できない、できない私にはできない」と受話器の向こうで泣きじゃくったが、心を鬼にして突き放した。A子が、当該大学の理事長に

思いを言葉にしてぶつけるのは厳しい事だったろうと今も思う。

 

私は、言いすぎたのではないかとか、ほかに解決方法があったのではと、繰り返し考えていた。

A子からその日の夕方、報告の電話がきた。

尋ねていったら理事長が、泥まみれのA子を見て、あわてて家に上げてくれ

たこと。そして、事情を聞いてくれたこと。さらに、これまでの生きてきた家族三人の思いをぶつけたら、言葉に成らなくなり言いたい事がいえなかったこと。自分の貯金通帳と印鑑を差し出して、これでB子を入学させてくださいと、お願いしたが受け取ってもらえなかったとのこと。

 

私は、思う。もし、自分が大学の関係者なら、B子に支度金を払ってでも迎えたい。同情からではない。

小学校から高校まで新聞配達をして、家計を支えた子ども。

まず、素行は模範となるような子に違い無い。そして、その子が家計を慮り

一校を受験したが選ばれたのは、自ら関係する大学、しかも合格しているのだ。

 

果たして、B子の入学は手続きの問題はあったが問題なく許された。

4年後、B子は卒業生総代となった。新聞配達は4年間一日も欠かさずやり通した。A子は、今も母親と穏やかに暮らしている。16年前のA子から相談の電話には、困難から逃げない気構えと懸命に生きる覚悟があるなら、また解決できると学んだ。それこそが術(すべ)であろう。