2月2013

 早 春 賦 

生活

 穏かな暖かな日が続いている。“春は名のみの風の寒さや”と思わず歌の一節が口をついて出てしまう。この冬は、比較的に暖かいということもあったが、風が穏やかで、陽射しの柔らかい午後、風の冷たさと春の陽射しを味わいながら草花の手入れをするのも愉しいものだ。しかしこの冬は、3月にチューリップを咲かせる予定で球根を植えたも、思いのほか目覚めが早くて驚いた。今は、向日葵の種播き時をどうしようかと思案している。地球温暖化傾向も定着しつつあり、種苗メーカーも「春播き」「秋播き」の記述に関しては見直しが必要になるのではないだろうか。

さて、春秋は微妙な季節の味わいがあるようだ。

秋、いよいよ深まるといういい方をする。春、まだ浅いといういい方をする。

夏や冬には、そのような言い方がない。ある意味、盛りや極みを表す季節感が

深いとか浅いとか言わせにくいのだろうか。いや、季節の色感なのだろう。

詩歌が海を渡ってきた時、この国の先人たちは季節の景色を愛でる秀逸な表現を学んだことだろう。景色は、季節の筆がつける色なのだと先人たちが思い、さまざまに言い残した大和言葉であれば、季節を深い浅いとした感覚は尊い。

 

書画。当初、禅宗とともに伝来した時は、書も画も区分けられずに伝わってきた。その頃、中国の墨と紙をありがたく拝むようにして使っていたことだろう。しかし今は、贔屓目なしに日本の方が、匠技が勝り、墨も紙も質が高くなったようだ。青墨は、松を燃やし、その煤(すす)を膠(にかわ)で固めてつくる。奈良の匠の話として、墨を納めた箱に青は、十三種類あると書いてあった。当然、青は藍より出でて、なお青しというくらいだから、藍から始まり、紺も濃紺もあれば、浅黄色など色に濃淡深浅の表現がなされる。青墨は、十三の青い色を細かく表現はできないことだろうが、深い浅いという青であれば墨を白い紙に筆で走らせることはできる。

さて、水墨画の世界に親しい禅師のことばを紹介したい。

花は愛惜にちり、草は棄嫌に生ふるのみなり

雪裡の梅花只一枝

雪月是同なり、渓山格別なり ~ 道元禅師 ~

雪深い越前の永平では、墨の衣をきた雲水(修行僧)たちが只管打坐という坐禅の修行をおこなう。只管(ひたすら)に座るのであって、懸命に坐するのではない。ただ坐するのである。力んでもいけない。只管は、本当に難しい。

いつも目にする色鮮やかな世界。凡夫は、目にしても殆ど印象を心に刻むこともない。自然と向き合い、自分と向き合い、命を惜しむように暮らせる境涯に辿りたい。何より他者へ労わりの心情が、豊かな景色を見せてくれよう。