2月2013

ノーブレス オブ リージュ

生活

 先ごろ、リーダーにはしっかりとビジョンを語ってほしいと書いた。

リーダーは、全人格をもって語りかける必要があり、単に経験知識を振りかざし力説しても、人の心は動きそうにはない。

「北辰斜めにさすところ」という映画がある。主人公は、旧制第七高等学校造士館野球部で活躍した伝説の投手で、現在は医師という設定である。主人公は、旧七校時代にかなり活躍していたにも関わらず、同窓会の誘いを固辞する。その原因が、戦争で図らずも移動命令を受け、治療が出来ずに見殺しにしてしまった先輩のことや、南方で散っていった弟への贖罪があることが次第に明かされる。普通映画は、原作を元につくられる。しかし、この映画は、映画封切後に小説が発売されたが異色である。

 

さて、旧制高等学校は、国家が血眼になって、次世代のリーダーを育成しようという方針のもと設置された学校制度である。その校風は、「北辰斜めにさすところ」の映画でも触れているが、「小利口者になるより、大馬鹿者になれ!」である。「北辰斜め~」の北辰とは、北極星。他の星が動こうと、いつもそこにある、いわばぶれない存在であれと暗示している。旧制高等学校がつくられたころ、当時の政府は、実に国家予算の半分を教育につぎ込んでいる。もちろん、旧帝国大学などの超エリート育成だけでなく、初等教育などの基礎教育にも力を注いでいる。おかげで、日本国の有識字率は世界に誇れるレベルになった。

 

最近、看過できない情けない事態が起きている。小学校における教育現場荒廃や学力低下である。ある意味、小学校教員の質の低下があるかもしれない。加えて、しつけが出来ない保護者の存在やかれらの常軌を逸脱した言動が学級崩壊を全国レベルで誘発させている。紛れも無く教育は、未来の国家を映す鏡である。この国の未来は、このままでは暗雲の立ち込める嵐の空である。

 

戦後まもなくまでは、優秀な人材から先に教育現場に送り込まれてきた。教員になるものは、父母や祖父母が教員という家庭が多く、教職課程以外に進学前や採用後も家庭という機関で育成されていた雰囲気があった。だが、80年代以降、安定した子供相手の仕事のように考えて教員になった学生らが大幅増。教育現場の人間になるのだから教員は、学力はもちろん、適正試験も経て配属されている。しかし、本当に求めている教員を採用できているのだろうか。機会平等には賛成である。教員の再教育に大学院などでのカリキュラム履修が果たしてどれだけ効果的なのだろうか。知的生産の技術は大切だが、相手にするのは製品や商品ではなく人間である。よくよく考えてもらいたい。

教員を聖職者扱いしなくなって相当な時間が達つ。

退職金の満額自給のために、卒業前の生徒を置いて自己都合で早期かけこみ退職のものたちも多くいることが報道されている。権利の行使に口を挟めないが、将来、同窓会などがあったときになんと教え子らに説明するのだろうか。労働者としての権利をしたかでというのであろうか。



さらに不作為によって、いじめを苦にして自ら命を絶った子らや今般の高校生を死に追い込んだ教職員の体罰は、いかに理解したらよいのだろうか?見方を帰ると顧客や顧客の師弟に暴力を繰り返していたわけで、かばい立てできまい。

校長も四十九日もあけないうちに、高校生の遺族に在校生らの新人大会出場の許しを請うためにお願いにあがったという。遺族感情を慮れないとしたら、壊れているとしたいえない。教育委員会だけでなく大阪市大阪府、国の教育行政の敗北である。

 

教員だけではなく、一般公務員にも同じことが言えよう。官吏といわれた時代。国家は、全力で人材を育成し、役人らもよくこれに応え努力した。昨今の不祥事や不作為を見るにつけ、役人らは、地に落ちたかの思いで気分が滅入る。ノーブレス オブ リージュという言葉がある。ノーブレスは、高貴などを意味する“Noble”が源。国家が、力を入れて育成した人材は、あえて困難な時に身を置き逃げない。戦争で言えば、将校こそ先頭に立って斬り結ぶ範を見せる。役人は、言わば禄を食む士のことである。徳が、高くあってしかるべきである。