3月2013

春のうららや錦織りなす長堤のこと

生活

 いよいよ弥生の空である。三寒四温の厳しい時節に違いないが、身のしまる寒さは心地も良い。日当たりもよくなり、花への水やりも乾きが随分と早くもなった。上着を通して差し込んでくる陽光も、時に首筋あたりを厳しく射してくる。

薄くたなびく雲に春の装いが感じられる。

「春のうららの隅田川」とついつい口から歌詞もついて出てくる。

さて、「うらら」なのだが、暖かな春の陽光あふれる午後のことだろうと思っていた。が、「春うらら」は、古からの歌にも出辞のある「春うらうら」であり、海援隊の「贈る言葉」にある「暮れなずむ」直前。陽射しが弱まった春の夕方の情景である。「うらうら」時分の水面のことだから、やわらかい黄昏そのものだろう。古来、土の黄色が金色を生むと考えられていた。黄昏とは、現世が金色で乱反射している情景だろうか。春の草花が額装として情景を押さえると、錦絵そのものではなかろうか。

 

秋は、龍田姫が「渓(たに)の流れに散りゆく紅葉。波にゆられて離れて寄って、赤や黄色の色さまざまに、水の上にも織る錦」と錦の織物然として織る。春は、佐保姫が「錦織りなす長堤に」とあるように、淡い花々の色と空の蒼さを織り込むのだろう。

滝廉太郎の「花」は、1900年の作。小学生や中学生には難しい言葉もあるだろうが、美しい言葉は理解できるようになる年まで覚えていても良いと思う。東京芸術大学の前身に学んでドイツに学び帰国した廉太郎だったが、広く知られるように結核で亡くなる享年23歳。

佐保姫の力を借りたとしても、廉太郎の織り込んだ情景の美しさは、百余年

の今日も一向にあせることなどない。人の真剣に生きた真実がなせるものなのか、言葉の力か、音楽の力なのか。

 

5年ほど前に、映画「敬愛すべきベートーベン」を観たことがある。

「敬愛すべき」とあるが、音楽が全てのような、聴覚を失った天才の老いても意欲の衰えない創作へのすさまじい思いと思い余って吐く下品な言葉。観ていても大半の時間は、なかなか敬愛すべきという気持ちになれない。しかし、音は、空気の振動にすぎないが人の魂を揺さぶることが出来るという信念。聴覚を失ってもなお、創作に打ち込む時に、音楽は沈黙み深い意味があり、「沈黙が

深ければ深いほど、やがて魂が歌い出す」と言い放つ。

春爛漫の空の下では、心から色も音も腹一杯に味わいたいものである。