3月2013

色彩を超えた書画

生活

 上野の山の国立博物館で書聖王義之展があり足を運んだ。

毎度のことなのだが、人気の高い展覧会はゆっくりと鑑賞することが叶わない。しかし、ほんの一瞬でも本物と対面できることは、それでも価値を計り知ることが難しいので、なんとかすばらしい展には足を運ぼうと思う。

仮の話だが、本物を自然な形で鑑賞しようとハイビジョンカメラを使って観たとしても、自分以外のフィルターレンズを通して観ることに違いない。観たいように観られるか?あるいは作品の雰囲気を感じ取れるか、それが問題だ。第一、肉眼で見る機会には、いいすぎかもしれないが、本物が醸し出す空気を毛穴から吸い込むことが叶う機会でもあるのだ。作品と対峙する意味は大きい。

さて、王義之展ではよくも古いものが(多くは拓本であるが)残っていたものだと感心しきりだった。さらに、後世に伝える思いや伝え方もきっと素晴らしいものに違いない。個人的には、王義之に影響を受けて般若心経を隷書で書いた西令印社創立者のひとり呉昌碩の軸が心に焼きついた。

多くの作品群は、茶系の墨で鮮やかに書き出されていた。、五言や七言絶句、書状など短い文言であっても人の思いや願いや祈り、そして情景を写し取ったものに違いない。作品群は、後世に残され伝えられる自覚があるからこそ、そのときの様子や人との出会いと別れなどをありのままで描きたかったのではなかろうか。限られた紙幅の中に、丹念に人物を描きこんだ様子から想像が膨らむ。

 

日本人が使う漢字は、源を辿れば象形文字である。自然や物事、動作所作などを形にしたことは明らかである。絵画と基本的に同根である。仮名は、漢字の宛て文字であり、辿ればこれも絵画と同根であると言って差し支えあるまい。

絵画をデフォルメしたような文字で情景を切り取るのが俳句のようにも思えてくる。水墨画と俳句の共通点についていえば、「余白の美」と「余韻」。この場合、作家は、鑑賞者の想像力を借りて作品を完成させているといえよう。水墨画は、通常、日本画と違い背景を埋めることをしない。余白に、空気や風や光などの存在を感じ取らせる哲学的な芸術と言えよう。俳句とて、限られた言葉の使い方によって読み手の想像力や咀嚼力を借りて完成させる美が存在している。加山又造展に足を運んだ。絵画の枠にとどまらず、芸術世界を自由に飛翔した巨人。加山の描いた水墨画に向かい合いたくて出かけた。特に、晩年の水墨画に圧倒されて固まってしまった。墨に「色彩を超えた色」と価値を見出したと解説文にあった。ただ、唸ってしまった。真理は、饒舌とは限らない。

ところで、書画の源である中国で軸装職人がいなくなり困っていると聞く。書画は額装すればよいとしても、文化大国と言えども困るはずである。