3月2013

国民の生命と財産を護るというけれど

生活

  耳に慣れた物言いだが、日本国は、国家として「国民の生命と財産を護ってくれるのだ」と聞かされてきた。だが、うつむき加減になった時代の気分がさせるのか、金科玉条のように信じる国民は少数派ではなかろうか。

国民の三大義務と問われてすぐ回答できるだろうか?まず、「納税」は浮かぶことだろう。納税で苦しんだ経験のある人は多い。別にずるいことをしたから苦しむのではない。要するに、“税は正味財産の増加部分”にかかるのだが、増加が現金や国債のような有価証券で増えない限り、納税を現金でスムースに行えないのが実情である。銀行から借り入れても納税を行う人は多いが、真摯に納税に向き合う人には気の毒なことである。続いて、「勤労」。その昔、勤労奉仕などという言葉で、学校や職場や地域をあげて衛生や環境美化につながる活動で額に汗する人も多かったはずである。ところが、これだけ非正規雇用労働者が増え、雇用の創出に希望の光が差し込まない世相になると“「勤労」を言う前に仕事を作り出せ“とお叱りを受けそうである。そして、最後は「教育」である。今も押し問答が、朝鮮学校にも高等学校として授業料の無償化がなされるべきかどうかと繰り返えされている。授業料だけの無償化が、真に弱者救済になるかは不明である。



以前の本コラムで触れたが、“あしなが育英基金”が“高校授業料無償化”の政府、民主党の広報の徹底により皮肉なことに集まらなくなった。多くの善良な市民は、高校にすべての費用が無償で進学できると誤解している。高校は、授業料が無償になっても「弁当代」は必要だし、「交通費」や「副教材費」、「体操着」、などなど必要なものはいくらでもある。

「経済格差」が「教育格差」を生んでいることは、もはや疑う余地のない事実である。もし、貧困に苦しむ家庭の子弟に可能性の扉を開かせてあげられるとすれば、それは「教育」の機会だろう。国際協力の分野でも、確実に成果を挙げ、感謝されるのは職業訓練や能力開発訓練も含めて広義の教育である。

ところで、教育に「扶養」の概念が含まれるとすれば、平等な納税における“査察権”の行使があるように、児童相談所やその職員に強い権限を与えられないものなのだろうか。税務の査察官は、不正を確信したら建物を壊すくらいのことは何でもない。社会正義の実現に対するコストだといわんばかりに邁進する。児童虐待の通報を受けた児童相談所が、子どもと面談させてもらえず、結果として、本意ではなかろうが多くの子どもを見殺しにしてしまった。ただ、前線で児童虐待に立ち向かおうとする誠実な職員の方の気苦労ははかり知れない。



さて、児童相談所が強行してでも子どもの救出に立ちはだかるのは、法的な手続きである。基本的な人権の尊重の前に躊躇もあるのだろう。しかし、

それでも多くの善良な市民は、なんとかできないものだろうかと思っているに違いない。極端なことを言えば、子どもが虐待されて瀕死の状態にあると予想された場合、家を壊し突入したところで、多少の間違いがあっても世論は許容するのではなかろうか。国家は、物言えぬ小さな国民の命を護るために、あらゆる努力を惜しまないということを示してもらいたい。

親権を持った加虐者らの虐待に耐えて、あるいは育児放棄の果てに命が風前の灯ということが今も起きているや知れない。人命を尊び、また犯罪者の人権を護るのも結構。だが、罪を犯すこともなく虐待で命を奪われ、死に等しい心の傷を負った子どもは誰が護るのか。罪を犯した人間を正しく裁くより、ひとつの命を救ってもらいたい。何よりも奪われた命は、再生できないのだから。