3月2013

おふくろの味で新しい東京オリンピック

生活

 戦時中の話である。五木寛之氏の「大河の一滴」の中に、シベリア帰りの先輩の話として以下のくだりがある。「冬の夜に、さあっと無数のシラミが自分の体に這い寄ってくるのを感じると、思わず心が弾んだものだった。それは、隣に寝ている仲間が冷たくなってきた証拠だからね。シラミは、人が死にかけると、体温のあるほうへ一斉に移動するんだ。あすの朝はこの仲間の着ているものをいただけるな、とシラミたちを歓迎する気持ちになったものだ。」(隣に寝ているものが死んだら、下着や靴下まで分けてもらえる決まりがあった。)



戦場は、つくづく陰惨悲惨な場所でしかない。

このような場所に、帝国ホテルの名シェフ村上信夫氏は、フライパンと牛刀を持ち込んで転戦した。もともと村上氏は、神田の洋食屋の倅として生まれたが、尋常小学校5年のときに両親を結核でなくし、門前の小僧には違いなかったが、幼くして天涯孤独の身になり料理人を志したという。

戦場を転戦する中で、エピソードがある。中国で現地調達した鶏をさばいて腕を振るってカレーを作った。敵陣まで届きそうな匂いに少佐が、「こんなところでカレーをつくった奴は死刑だ」と軍刀を抜いた。氏が目を閉じると、耳元で少佐が「後でおれにも食わせろ」と。

シベリアでは、抑留生活中に「死ぬ前にパイナップルを食べたい」という瀕死の傷病兵がいた。氏は、願いをかなえてやりたかったが手に入るわけもない。そこで、痛みかけたリンゴを輪切りし、ギザギザの切り目を入れ砂糖で煮た。缶詰のパイナップルに似たものが出来上がった。後年、男が氏に駆け寄り、「あんたにもらったパイナップルを食べて、生きていればこんなにうまいものが食べられるんだと勇気がわいた」といわれたという。



村上氏は、「料理はお母さんの気持ちでつくりなさい」と繰り返し説いていたそうである。村上氏は生い立ちにあるように、十分におふくろの味を堪能できたはずもなく、本来は師匠になるべきだった料理人の父君とも早く死に別れた。

村上氏の料理は、名だたるホテルの看板として煌びやかで華麗な印象があるが、戦場で磨いた思いや願いが「お母さんの気持ち」につながるのだろうと思う。事実、料理を求める人に寄り添うような態度や母性豊かな精神性が滲んで見える。氏は、私生活で干物と漬物と味噌汁があれば十分という人だったという。普通のお父さんを地で行く人だったわけである。1964年の東京オリンピックの時、氏が選手村の料理や宴会料理の一切を引き受けて重責を担い、日本の面子を守ったと聞いた。新しい形の東京オリンピック招致、今年が本番である。「お母さんの気持ち」で臨めれば、きっとよい結果が生まれることだろう。