4月2013

蓮華草と蓮華

生活

 いま時分なら、随分と日が長くなったことを実感しながら、強く差し込む陽光を掌ですくったりしてしまう。子供のころの春暖和む風景に、白い蓮華草の群生している様子が思い浮かぶ。当時の女児らは、よく茎ごと摘んで首飾りなど作って遊んでいたものだが、蒸せ返すような青臭い匂いが懐かしい。

蓮華草は、帰化植物である。蓮華草と名前がついたのは、花びらがまとまっている様子が蓮華に似ているからだといわれる。しかし、自分にはそう見えない。蓮華草の蓮華の冠たるゆえんは、その形より人を養う滋味豊かな蜜にある。

幼い頃、蓮華草の蜂蜜を隠れてよく舐めた。蓮華草の蜜の滋養が高さは、修行僧をもてなす蕎麦に似て徳が高い。その徳の高さも蓮華と語るに相応しい。

さて、その蜜。舐めると濃厚だが、しつこくない甘さが口の中いっぱいに広がり幸せな思いをした。だが、滋養だけがあるだけではなかった。抗菌性そのほか個性のある蜜は、鼻血を直ぐに出させるほどにあくも強烈にあった。

帰化植物であり、旺盛に繁殖した力をみていると滋養強壮を素直に信じられる。土壌改良事業を行っている場所には、夥しい数の蓮華草の絨毯が、幾重にも連なっているかのように思えた。が、あのように地を蓋い尽くすように生えていた蓮華草はどこにいったのだろうか?とんと地方でも見かけなくなった。

 

他方、蓮華。

蓮根畑、いや蓮華の鎮座する池をつくづく見ているとの妙なる不思議さに引き込まれる。どこまでも空気と養分を送り続けようと地下茎を伸ばす。泥の中にしっかり根を張って泥にまみれているのに、花は棘だらけの真っ直ぐのびた茎の上にしっかり載っていて、花の下に泥の澱が広がっていることを感じさせない。不浄とは無縁のように咲く花は、見る者を不思議の海に漂わせる。

釈尊の悟りは、法華経によれば妙法蓮華経の五文字で表せる世界観である。

とすると、穿った言い方だと蓮華で世界の五分の二ができているということになる。思わず、唸ってしまう。が、暇に任せてこんな考えをする人間もいないだろうか。先人達は、陽気のよい時分に、蓮華を日長眺め、不可思議な人界のことや夢幻を蓮池に思い浮かべたことだろう。花が枯れるとその花の相は、地下茎のように、蓮根を輪切りにした時のように変わってしまう。

釈尊が鎮座する像の多くは、巨大な蓮華の上にある。

古墳や遺跡から見つかったという古代種の蓮華の花が、長い眠りの果てに咲いたというニュースも耳によくする。人の思いや願いが、時空を越えて花を目覚めさせ咲かせるのだろうか。不浄、不条理、理不尽のうごめく世界ではあるが、自らの信じるところを時間はかかっても、花と咲かせたいものだ。