4月2013

HONDA。魂の承継

生活

 ひさびさに、HONDAがF1復帰を目指しているというNEWSを耳にした。

世間では、単なるNEWSとして報道されているようだが、HONDAイズムと

呼ばれる精神性の高い理念を掲げる企業ゆえに、人、それぞれに重く、そして、人それぞれに感銘深い思いあることだろう。

小生は、HONDAをめぐる印象深いこととして、4年前の9月下旬の静岡県立病院に入院していた手塚啓太君のことがある。手塚君は、当時12歳で小学六年生。急性リンパ性白血病で、それまで懸命に闘病していたが、9月に入ると手を動かすのが精一杯というほど衰弱していた。

手塚君の夢は、F(フォーミュラー)1関係の仕事に就くこと。男の子らしい夢である。これを子ども病院で聞いた難病の子どもたちの夢をかなえるNGO-メイク・ア・ウイッシュ オブ ジャパンのスタッフから、HONDAに相談がなされた。驚いたのは、HONDAが即決し、翌日には県立子ども病院にF1カーを持込んだということだった。手塚君の体に力が湧いたのは明らかに見て取れたそうだ。

 

「やはり、HONDAだ。」という感想が、思わず小生の口から無意識に出てしまった。HONDAの創業者本田宗一郎は、静岡は天竜川流域の生まれ。いまだ自動車が珍しかった時代。少年は、生まれ故郷ではじめてカーチス号を見る機会があった。いたく感動した少年は、排気口に顔をつけて排気ガスの匂いをかぐなどしたという。そして、心ひそかに「世界で一番速い車をつくる」と誓うのだった。

その後の本田宗一郎氏の伝説は、世界の人々の知るところだが、少年が誓いを立てた日から72年後、音速の貴公子アイルトン・セナと組んで、F1でコンストラクターズチャンピオンとなった。鍛冶屋の倅の晴れ舞台だった。

その瞬間。テレビで見ていたが、私は目頭が熱くなり涙が止まらなくなった。

「私の右手が語る」や「得手に帆をあげて」など本田宗一郎氏の著作を読むことが多かったので、彼の少年の頃からの夢がかなったことが自分のことのようにうれしかったのだ。

ところで手塚啓太君は、F1カーだけでなく、ドライバーなどのお見舞いなどを受けて、自分は幸せだと両親にいっていたという。なぜに、純粋で無垢な命を病は奪うのかとやるせないが、少年は逝ってしまった。少年は、自分の夢の一端に触れられて、本当に幸せだったのだろうと信じたい。そして、世界企業となっても、本田宗一郎氏の魂が承継されているHONDAがなんともうれしかった。企業は、利潤をあげる以前に、人を幸せにするためにあるに違いない。