5月2013

円安になっても、日本に製造拠点は戻ってくるか

生活

 成長著しい東南アジア市場には、チャイナリスクに備えてプラスワン戦略の下、中国からの製造拠点移転や新たに国内から進出を図る企業群が控える。

チャイナリスクだけに理由が集中するわけでもない。そもそも東日本大震災やタイの水害によってアジアだけによらず、世界規模にまで負の連鎖が及んだ。

その時に、経済人はあらためて、国際水平分業の大きさやそのサプライチェーンの大きさに気づかされたことだろう。

中国への進出を見るまでもなく日本企業は、大手企業や系列企業や下請け企業までもが一団を形成して進出してきた。日本の製造業は、中小零細企業にいたるまで独自の技術やノウハウを持っている。それらを現地の企業に技術移転することまで含めて進出は検討されている。現地化まで含めると十年の単位が必要になるかも知れない。

アジアの市場では、高品質・高付加価値の商材を別にすれば、ほとんど域内

生産・域内消費に落ち着いている。未だ日本の多くの経済人が、所得が伸びれば日本の高品質商材が市場に支持されると思い込んでいるようだが、大きな誤解に違いない。アジア市場の多くの人々は、日本の高品質商材を過剰品質の商材と考える傾向があり、市場のニーズとの間に大きな乖離が見られる。

 

円安によって、投資への余剰が生まれる日本企業は、進出実績のある国々への投資を増やし、それらの国々からの輸入も増やすことになるだろう。

1997年のアジア通貨危機以前は、日本の高品質商材をアジアの高所得者向けに輸出し、実績を伸ばしていた時代である。その本質は、日本の製造業者らが価値感を押し付けていたような時代である。よく言っても高品質商材の使い方、用い方を提案をしていた時代である。マーケテイング用語でいうところの「プロダクトアウト」一辺倒の時代だったはずである。

アジア市場では、日系列企業が進出し製造されている日本由来の商材の仕様が大きくことなっていることが多い。経済が発展し、所得が増えても日本の市場と同じニーズが必ずしも生まれないのである。

日本は、過去を振り返ると超円高時代をよくぞ耐えたものである。そして、東日本大震災後のGDPの大幅な後退の時期にも。この先、日本の復興は進むだろうが、生産年齢人口の大幅な減少による規模の経済の追求は困難である。また、エネルギー事情や外国為替市場の動向しだいで、現在は日本国内で製造し低コストで輸出できているものでも、いつ何時流れが変わる可能性がある。「マーケットイン」に学ぶならば、市場にあわせた製造手段ごと進出すべきである。円安によって競争条件が有利になっても、その先を見極めるべきである。日本にではなく、日本製の製造拠点が世界に増えるということであろう。

韓国経済民主化とは、どういうことなのか

生活

 朴大統領は、大統領選挙期間中や李政権からの移行期間中、盛んに「経済民 主化」を訴えていた。いまや多くの国々が民主化を果たしている時代に、あえて掲げる「経済の民主化」とは具体的にどういうことであろうか。

先に韓国の大手金融機関は、実質的に外資企業であり、極端な例では株式の100%、少ない出資率でも50%を悠に越え70%、80%支配されている状況である。大手金融機関の多くが、外資に株式支配されているように、多くの大企業も実質的に外資に支配されている。その大手企業の資産内容を見る限り、韓国経済の病巣の深さ、大きさが見えてくる。

 

2012年末時点の統計によると、韓国政府の保有資産額はおよそ1500兆ウォンと推計されていた。そして、韓国大企業上位100社の保有資産額も

およそ1500兆円程度とみなされていた。ただし、それから半年がまもなくたとうとしているが、現在は民が官を越えていると専門家らは多くが推測している。つまり、外資が株式支配している大企業の保有資産額が韓国政府の保有資産を超えているとみなされていると思ってもよいのではなかろうか。

さらに100大企業のサムスンなどの上位5社の保有資産額は、全体の50%を超える状況にある。驚くべき集中であり、資本支配の現実で有る。

韓国政府は、IMFが中心となり協調して支援を行った1997年、支援策

と引き換えに、経済の根幹をなす企業や事業、そして資産を外資に叩き売ってしまったような感がある。

 

前李政権では、税制を初めとして、財閥優遇策を駆使し、対外的にはFTA外交を積極的に展開し、ウォン安となるような金融政策に導いた。その結果、外貨準備高も大きく伸び、GDPも世界第7位の地位を得ている。ところで、

これを実利で考えてみると、李政権の華々しい成果も大幅に割り引き考える必要がある。政府保有資産を大きくするためには、稼ぎ手である大企業に税金を払ってもらい国を支えてもらうべきではなかろうか。外資に支配されている大企業の税制優遇は、税を支払ってもらうべき外資を利することになるのではなかろうか。また、大企業優遇のために資金調達で便宜を図るとすれば、外資に支配されている金融機関に大きく稼得の機会を与えるだけで、民族系金融機関やノンバンクの育成や助成にいかほど効果があったことだろうか。

さて、経済民主化とは財閥等大企業重視の政策をあらためるということである。これまでの政策では、財閥が収益を上げても税収も上がらず、雇用も促進されてこなかった。利益があがっても、外資を利するばかりであった。急激なウォン高のあとの反動でウォン暴落もあり得る。経済民主化、如何せんである。

1997年通貨危機以後の韓国は、課題を克服したのか

生活

 ここのところ、円安が進んでいる。先進国(G7会議)もアベノミクスに理解を示し、過度な自国通貨の安値誘導だけは避けようということで一致して

いる。アベノミクスでは、デフレーション脱出を主眼に効果的な金融緩和を行っているのであって、外国為替でいえば国際通貨たる対米ドルと対ユーロに注視している。

ところで、北朝鮮から様々に挑発を受けている韓国が、日本が外国為替市場において、あきらかに政府主導で行過ぎた安値に外国為替市場に介入していると抗議を繰り返してきている。

これまで円高傾向にあった外国為替市場では、何度も日本政府による介入が試みられたがほとんどが効果がなかった。つまり、外貨準備高がふんだんに有る国が、介入を試みたところで国際的に共通の理解を得られない限りは、為替操作は困難ということである。しかしながら、このことは真に国際化されている通貨に当てはまることであって、たとえば中国人民元は、政府による実質管理が明らかであるが、通貨が国際化していないために行える政策である。また、韓国も国際化しているとはいえず、これまでの韓国ウォン安政策は、李政権時に輸出依存型経済の実効をあげるために必然の政策であったといえるだろう。

 

韓国国民にとっては、屈辱的な通貨危機をIMF主導で支援を受け、その後、世界に冠たるFTA大国・経済大国(外貨準備高世界7位)となったのだが、

16年経った現在は問題を克服できているのであろうか。

韓国が克服すべき課題は、主として三つあったはずである。

第一は、内需の拡大である。輸出一辺倒に偏っていると外国為替の急変によって経済に対する影響が大きくなり、通貨や株式・債券をはじめとする暴落に歯止めが利かなくなる可能性がある。第二に、対外債務を減らすことである。旺盛な資金需要を外資に頼っていると外資の引き上げによる売り浴びせなどに対応できない。また、外貨を流動性の高い資産で保有率を高めることである。第三に、極端な財閥依存型経済を脱することである。伝統的に韓国財閥は、資金調達によって需要見込みを度外視して全産業に進出したがる傾向がある。未だに不効率な事業を展開する財閥は多い。さて、これら三つに限って見ても韓国経済は、1997年当時から体質改善をできてはいない。対策は、国内の資本蓄積を充実させ、金融システムの信用を高めるべき政策が必要であるが、IMF危機によって大手金融機関を外国資本に売却し、韓国経済を支える資本の大方は外資の色が濃くなり、金融システムも外資金融機関頼りの体質がますます強まっている。家計借入率は、1997年当時より高まってきている。家計の赤字をノンバンクで借り入れて行っているようなものである。未だ危機である。

学ぶということ。歴史教育問題

生活

 以前、本コラムでいかに歴史を学ぶべきかについて書いた。そのときは、自らを振り返り、結局、世界史であろうと日本史であろうと与えられた知識だけでは不足なのだから、日本史は司馬遼太郎や海音寺潮五郎を読んで学ぶなどいかがだろうかと書いた。ここのところ、為政者たるものの近代史への浅い認識や不適切なものいいに閉口している。

現存する問題、あるいは未来世代に負わせる問題は、煩わしい議論に陥っている。敗戦後、不都合な事実はすべて否定した教育下で、中教審(中央教育審議会)は、高等学校の社会科(地理歴史科、公民科)の教育方針が定まらず、議論ばかりが繰り返されたことが続いた。自国の歴史について認識できていないことを留学で、相手国の都合のよいように刷り込まれるのは悲惨である。

都合が悪いことであっても、しっかりと教育すべきだという態度が、歴史認識で日本国内の問題までにも干渉してくる国々に対しても示すべきものであろう。



世界史を必須にとかつて行動した学識経験者は、「大学教育では、経済や法律を学ぶ上で基礎となる世界史が必要だ」とか「国際化の時代に宗教概念を学ぶには世界史が大事だ」と高等教育機関や経済界からの要請もあり世界史案を支持した。

それまでは、「世界史が必須」で「日本史が選択」だった。

そのため、歴史上の重要な人物名を中心に読み方がわからないという若者が多かった。これは、「日本史必須派」の学識経験者の「日本人としてのアイディンティティをはぐくむために継続して日本史を学ばせることが必要」という話に

も理があると思わせる。

どっちつかずとなれば、妥協の産物として「総合歴史」「総合社会」のような科目がほしいという意見も出てきて、これに対し、学識経験者からは「体系化された学問を統合するには無理がある」との声もあった。

問題が深刻となったのは、必修科目にしてもカリキュラムを消化できずに、

必修を履修していたことにしようという名うての進学校のあさましい所作に

よる。難関大学の合格者数を争うような学校がこの様では情けなかった。

 

数学のノーベル賞といわれるフィリーズ賞を若くして受賞した広中平祐博士(京都大学名誉教授・ハーバード大学名誉教授)のご母堂のお話が忘れられない。博士のご母堂は、実姉の嫁ぎ先に、彼女の病死後、後妻に入った。博士は、「母は無学」だったと仰せだった。が、ご母堂の逸話を伺い、大変な教養人だと思った。少年に社会科の宿題が出ると、世の中に一番明るい村長のところに伺った。理科の宿題が出ると村一番の科学者の医師のところに出かけ指導を伺った。そして、一緒に話を聞いて心から感動してくれたという。世界的な数学者広中平祐博士は、ご母堂の真摯な姿により、学ぶとはどういうことなのかを教わったのだという。さて、教職者は、世界史や日本史、公民を学校で履修する時間がないというのなら、読書指導をしたらよいと思う。自発的に読書ができないようであれば、なにを学校で学んでも、不毛の人生が続くことだろう。ただただ、いつまでも魂が、響きあう学舎であってほしい。

毎年5月になると思い起こされること

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 去る年の5月連休に小生の実父の墓前を尋ねた数組の訪問客があった。

ひと組は、この連休中に結婚披露宴を開いた花嫁とその両親だった。花嫁の父は、その昔、小生の対中国ODA中国国営工場近代化プロジェクトにおける担当通訳であった。彼は、小生に娘の日本留学を託した。娘は、小生が講師を務めていた大学を卒業し、さらに小生の勧める鹿児島の福祉専門大学院で学んだ。専門的なことを学びながら実父の関わる福祉施設で居住し、実習やアルバイトに励み、関係する福祉関係の資格を取得した。

その後、中国進出した企業に勤務する日本人男性を追って帰国した。実父は、結婚には反対しなかったが、体系的な事象を学べる時期は、生涯にさほど長

くは無いと帰国を惜しんだ。

 

ところで、花嫁の父は大きな老酒の壷を抱えて鹿児島に向った。中国華中地方では、娘が生まれると父親は紹興酒を仕込む。花嫁が嫁ぐ日に、その甕を万感の思いで割って振る舞い酒をするのである。故事に習い、それを実父の墓で行いたかったようだが、墓守たちに拒まれ、グラスに注いで捧げた。花嫁の父は、手を合わせ号泣した。いくら慶事であろうとも、襲ってくる寂しい気持や空虚感を埋め合わせられずにいるのだろう。花嫁の父は、その時から遡って5年前に、我ら一族郎党が植樹活動に出向き植えた万里の長城付近の松柏が、随分と大きくなったと語り、生きている実父に日本でお眼にかかれず、月日のたつことが早く恨めしいと泣いた。

 

そして、もうひと組。Y君は、名門醸造会社の跡とりで、放校寸前でこの春

大学を卒業した。育ちがよく、素直な性格だったが、上京して小生の母校に入学。やがて、夜の歓楽街で遊ぶようになってから、学業そっちのけになった。彼の両親は、小生の実父を頼りにしていて良く相談をした。が、親が熱くなればなるほど、Y君の反発が大きくなり、とうとう彼の両親は、さじを投げた。  実父は、亡くなる直前までの10年ほどは、癌と戦う日々であった。が、大正生まれの気骨の塊であったのだろう。体調が悪くとも、上京し歓楽街にY君を捜し求めて出かけたりもした。戦争によって、可能性を捻じ曲げられた世代。その世代の多くの者は、夢をあきらめない気持ちや遠回りを恐れない気持ちがあり、心が折れそうな心情やささくれだった気持ちをよく理解できたのではないかと推察する。

Y君に逃げても何も解決しない。尊い一度の人生を生き抜くのに、遅いも早いも無いだろう。遠回りを恐れるなと諭した。Y君は、「卒業が遅くなり申し訳ありませんでした。」「お約束だけは、お守りできて嬉しく思います」と墓前で泣き崩れた。

墓に入った人の人生は、確かにそこで終わっている。しかし、生前のその人のつくした誠が、前向きに人に働きかけるのなら、きっと荒涼たる人生の原野を突き進みさせ、拓きゆかせるものだろう。人生の糧を、人に差し上げられるなら、たとい墓の中で眠っていようとも死んだとは言い切れない思いである。



先日、ずいぶんと遠回りをした別の卒業生から、子どもを授かったので実父の墓参りしたいと連絡があった。

 

東南アジア通貨危機で当事者が学んだこと

生活

 現在、東南アジアにおける最大の輸出入市場は、東南アジア自身である。

当たり前のようだが、北東アジアでFTA圏を築くのがこれからの日本にとって、東南アジアが壊滅的な経済から立ち直り、成長市場に至ったプロセスは、

振り返ってみて学ぶところが大きかった。

 

通貨危機発生直後は、外貨による巨額の短期貸付をおこなっていた外資の引き上げや株式や債券の売り浴びせ、為替市場での投げ売り等により、タイ、インドネシア、マレーシア等は、「不足する外貨の融資」と「金融システムの信任」

を得られないと復活できなかった。アジア通貨危機の震源となったタイにおいては、バーツ危機が起きたときに、IMF・世銀とアジア各国の協調融資が緊急に行われた。規模としては、172億ドルであった。日本政府も輸出入銀行(現国際協力銀行)を通じて40億ドルを融資している。

 

ところで、当時からタイは日本にとって一大製造拠点となっていた。

そのため、大手企業ばかりでなく、中堅やそれ以下の規模の製造企業も多く進出を果たしていた。

進出した企業群は、それぞれに巨額の投資を行い製造拠点を形成していたが、

たやすく撤退するという選択をする企業はなかった。ただし、金融危機による

進出国や周辺国の景気の冷え込みにより、現地金融機関も危機的状況に陥っており、当然のこととして進出する企業も資金繰り、資金調達に困難を極めた。

そのため、日本政府も日系企業の支援に乗り出した。大企業から中小企業まで融資を受けたその規模は、1兆3千億円超えたとされている。この未曾有の通貨危機に際し、わが国も歴史的な緊急融資で応えて見せたのである。

学ぶべきは、「必要資金」を適時適切に融資実行したことにより、東南アジア圏での延焼を食い止められたことだろう。さらに、関係国向けの「金融システムを安定させる」ために日本は、300億ドル規模の支援を行うと表明し、通貨危機を収束に向かわせている。留まった日系企業は、回復、発展を遂げ、東南アジアの経済成長にその後も寄与している。

 

規模の大小はあるが、経済危機に際しては第1段階で「外国為替市場での暴落」、「(外資)資金流出」、「外貨準備額不足」が起きる。企業では、第2段階として「急激な経営コスト上昇」、「外貨建て債務の負担急増」「資金調達の悪化」。

第3段階では、金融危機が実体経済に多大な悪影響を拡大してゆく。通貨危機

から世界が学んだことは、「金融秩序』を早期に回復させ、「金融資本市場」を整備、成長させることの重要性であったと思われる。

通貨危機を越えて、成長市場の東南アジアに

生活

 経済の視点として、依然として日米欧の三極から思考が離れられない方も多い。三極に続くべき極になりそうな市場はといえば、現実的なところでは中国であり、さらに締結によってFTA圏を形成しようとする日中韓の北東アジア圏は、今後、認識が深まることだろう。

しかしながら日中韓によるFTA圏は、領土問題や歴史認識問題などの政治的な問題が前面に出てくれば、たちまち座礁しかねないような懸念もある。さらには、中国と韓国の経済動向に予想を超えた不安定要素も現れてきている。

 

他方、BRICSという国内に大きな市場を抱えた新興国以外にも、有望な

市場が存在する。「東南アジア経済圏」である。

1997年のタイを震源にしたアジア通貨危機では、アジアのみならず世界

全体に深刻な悪影響を及ぼした。アジアでは、タイからインドネシア、マレーシア、韓国に飛び火し、韓国にいたってはIMFの金融支援を受けるにいたった。通貨危機に陥った各国の事情は同一ではないので、ひと括りにできないが

「東南アジア」諸国で共通するのは、自国の体力に似合わない外国為替取引に陥っていたことと、旺盛な設備投資のために内貨の需要を外貨からの借り入れに依存し、そして外貨借り入れも短期性のものに偏りしすぎていたことである。

その度合いが極めて高かったために、通貨や株式、債券の浴びせ売り等を蒙り、

国内経済が瀕死の重症を追った。

 

ようするに、「通貨」に対する信任がなく、外資の引き上げにより、借り入れで資金需要をまかなっていた設備投資や証券投資などあらゆるものが「不良債権化」し、資金不足から国内の金融システムが「機能不全」に陥ったわけである。外貨準備高も底を突き、経済が完全に崩壊した東南アジアであった。

 

現在の東南アジアにとって、最大の輸出市場は東南アジアである、同様に輸入の市場も東南アジアである。21世紀はじめまでは、大きく貿易相手が欧米あるいは日本と依存度合いが極めて大きかったが、現在では東南アジア圏が有望な市場を形成し、さらに発展する様相を呈している。

東南アジア圏は、通貨危機を乗り越えて、資本の充実と金融システムの構築を図り、一時的な経済の停滞はあったが、世界の経済成長センターとして存在感を増してきている。かような認識が一番不足しているのは、日本国内のようである。国民の所得も向上し、購買力も向上してきた東南アジアに対して、的確な市場分析や商材の開発に、東南アジア諸国、中韓、欧米などと比べて、大きく出遅れていた。だが、中国リスクの認識とともに日本の変わりつつある。

ハワイで観測された二酸化炭素が400PPm超えに

生活

 先に発表されたハワイ(マウナロア観測所)にある米国海洋大気局(NOAA)

観測データによれば、ハワイにて大気中の二酸化炭素濃度が400ppm超えということで、衝撃をもって各方面から受け止められている。

 

温暖化が、加速していることは明らかであるが、1958年の観測開始から初めて400ppmを超えた(1ppmは、100万分の1)のだが、二酸化炭素の大気中への放出が盛んになりはじめた産業革命前は280ppmと推計されているが、半世紀前と比較すると大気中の二酸化炭素量の増加率が3倍になっているとNAOOは、警鐘を鳴らしている。

 

京都議定書締結以降、世界的な環境意識の高まりはあるが、二酸化炭素排出

制限の必要性は認めながらも各国は、先進国と新興国、途上国それぞれに制限が経済発展の阻害要因になるかのように、受け入れを頑なに拒否したり、執拗に条件闘争を行ってきている。

ただ、温暖化に関するパネル会議の参加専門家は、温暖化を二酸化炭素の排出によるものと断定する学識経験者と、地球自身が温暖化に向かうサイクルに

あるだけとする学識経験者がおおよそ半数づつで、侃々諤々はあっても意見統一が難しいらしい。



今回の発表は、人類が後戻りできない極めて困難な状況に陥りつつあること

を啓示しているかのようである。

温暖化は、きわめて厳しい副作用をもたらすが、アフガンのように元は雪をたたえた高い峰々の連なる国家でも苛烈な結果が襲っている。峻厳な峰々から

雪水が長い時間を経て、湧水となって麓にめぐみを本来もたらされる豊かな穀倉地帯をもった国が、自ら排出した二酸化炭素によらない原因で、砂漠化に追いやられ、換金穀物農産物が収穫できなくなり、芥子の栽培に手を出したり、

発散されない不満がテロリストらと結び付いたりもしている。

 

食料が、不足するアフリカの国々では、砂漠化の進行が止められずにいるが、他方で人口爆発を抑えられずにもいる。二酸化炭素排出制限に真摯に向かい合わねば、エゴ主張を繰り返す国々にも、早い機会に天罰が襲ってくるだろう。

いや、現実に環境劣化に伴う、しっぺ返しが厳しく起きているようだ。

 

未来世代のために残すべき環境について、真摯に各国の為政者は語り合うべきであろうし、今を逃しては機会を失うことになるだろう。

昆虫は、未来の良質な食料

生活

 先ごろ、国連食料農業機関(FAO)より発表された報道を見て、かつて

パプア・ニューギニアから国際協力分野で要請を受けたことを思い出した。

まずFAOの報告に注目したい。要旨は、以下の通りである。

甲虫や芋虫、ハチなどの昆虫は、欧米の消費者が「気持ち悪さ」さえ克服できれば、世界中で環境に優しい食料源として活用できるかもしれない。というものである。



エバ・ミューラーFAO森林経済局長によれば、「昆虫を食べよう」について

「昆虫は豊富に存在し、貴重なタンパク源でありミネラル源なのです。世界人口の3分の1の20億人が、すでに昆虫を食べていますと。

(昆虫は、どこでも見つかり、短期間で繁殖し、高い成長率と飼料転換効率を誇り、環境に負荷が低いとされている)



前出のパプア・ニューギニアからの依頼だったのだが、日本のバイオ技術等

を駆使して、短期間の巨大化する養殖昆虫を未来のタンパク源のために開発する協力をしてほしいとの申し入れだった。

小生の知る限り、芋虫類は食料として、いたるところで重宝されている。

南方ばかりでなく、中国の東北地方も蛋白源として大きい種類の芋虫を大切にしてきている。



日本でも、イナゴの佃煮や蜂の子などは、山間地域の伝統的なタンパク源である。みやげ物店で気軽に買い求める人も多いことだろう。

蜂の子でも、わざわざ滋養があるということで、スズメバチの巣を襲う専門業者もいるようで、命を懸けて手に入れる味とはいったいどういうものかと関心がある。



さて、短期間に育つ昆虫についてだが、前出の報告に補足がある。

水分を除いた100グラム当たりの鉄分は牛が6ミリグラムなのに対し、イナゴ・バッタ類は8~20ミリグラムに上る。昆虫肉1キログラムを生産するのに2キログラムの飼料が必要なのに対し、牛肉1キログラムを生産するには8キログラムもの飼料が必要と。

世界的に畜産が盛んになり、途上国では穀物が人の口に入りにくくなり、その穀物を家畜が口に入れて、やがて家畜の肉が先進国新興国の人の口に入るということがおきている。食料問題は、根が深く太い問題である。

5月の第2日曜日。6月の第3日曜日

生活

 先日、鉢植えの赤いカーネーションを買い求めた。

花屋の店先で、季節の花にふさわしいとおもったからである。カーネーション

をなぜ母の日に贈るのだろうと子供の時に思ったことがある。この時期は、カーネーションが不足して手に入らなかったからである。みんな、自分のおかあさんの好きな花を贈ればいいのに。そう思ったことを懐かしく思い出す。

カーネーションを母の日に贈る習慣が定着したのは、母の日を提唱したアンナ・ジャービス女史のご母堂がカーネーションが好きだったからだと後に聞いた。母の日が、5月の第2日曜日というのは、女史が5月8日のご母堂の3回忌に友人知人の賛同を得て、母の日の制定に尽くしたからだということらしい。

その日は、1907年の5月の第2日曜日ということなので、母の日も100年ということになる。

母親に感謝を捧げたいという思いは、万人共通なので、宗教や風俗習慣によって少しづつお国柄で異なるが、母の日は、多くの国で3月か5月に制定が集中しているようである。



「父の日」は、「母の日」に比べると陰が薄い。

普段、あまり家に父親がいないことによるのだろうか、「父の日」は「母の日」のおまけのようにしてできたのではないかとおもっていたが、ドット夫人という方が、若くしてなくなったご母堂にかわって、ご尊父が男親一人で4人の子供を育て上げたということに関する感謝と尊敬を捧げたいとして、「母の日」制定から遅れること3年に運動を起こしたらしい。ドット夫人の献身的な努力からか、制定後ほぼ6年で定着したらしい。「父の日」に娘から「バラ」を贈られてうれしそうにしている親父族を見かける。たまにだからと「バラ」を奮発してくれるのかもしれないとおもったが、ドット夫人が、バラをご尊父の墓前に捧げたことによるらしい。父母に対する感謝や尊敬の念は、自然な情からあふれ出てくるものであり、逸話も故人に因んだり、連想させるものだったりと穏やかに耳に入ってくるものばかりのような気がする。

さて、敬愛する扇谷正造氏の著作で、母の日の制定後の件の女史のことが書いてあった。「母の日」の制定自体、万人の賛成するところだった。カーネーションもご母堂の愛された花として好感をもたれ、母の日の花に定着したようだ。しかし、その後も、ご母堂に対するさまざまな思いがあったのだろうが、女史の母の日に対する思いと活動は注目されることがなくなり、晩年は寂しい人生だったとあった。人それぞれに人生があり、思いがある。人を教訓めいた話や行動の強制によって、幸せに導くことは困難なようである。間違いなく人は、それぞれに父母から生まれ出でる。それぞれ、価値を創造することが相応しい。

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