5月2013

西暦1900年当時の日本周辺事情

生活

 日中韓首脳会議が、時期が熟していないという中国首脳の拒否にあい、韓国の仲介空しく、予定が流れてしまった。また、今度は閣僚の靖国参拝に韓国が

反発を強め、参拝閣僚の韓国入国拒否を検討しているという。

日中韓のFTAが締結、発効すれば世界市場のGDP比20%を越える巨大な市場になる三カ国の気が合わなくては、協力な互恵関係も築けそうにない。

 

さて、今を遡ること113年の日本周辺に目を転じてみたい。

それまで、日本へは大陸の文化や宗教などは、必ず朝鮮半島を通り伝えられたものばかりである。朝鮮半島の安定は、日本の安定に不可欠と考えられるのは、当時も今も変わらない。現在もロシアと領土返還問題で、向き合う日本であるが、当時は「不凍港」を求めて南下政策をとるロシアと厳しく対峙していた。現実に当時のロシアは、北朝鮮と川を挟んで向かい側になる鴨緑江まで進出してきていた。

中国大陸では、ヌルハチを祖とする清王朝が東北地方から北京に入り、中国を統治していたが、ロシアをはじめとする列強に無理難題を押しつけられ困りきっていた。また、それらの理由により国力を徐々に弱めてきていた。100年も前のことであっても、地政学上の問題はなんら変わっていない。そのために、今も様々な問題が首をもたげてきていることがわかる。

この当時からすると、中国の国力には目を見張るものがあるが、億万の人民を養う苦労は、今の為政者とて変わりはないようだ。

当時は、武力衝突が起きると負けたほうが賠償金を支払わなければならなった。今は、武力衝突の勝負の結果ではなくて、北朝鮮の暴発行為を抑える見返りの提供として、食料やエネルギーの援助を求められるという図式といっては、

過ぎた言い方になるだろうか。

ところで、日清、日露後、太平洋戦争に突き進み、連合国に敗れた日本は、戦後賠償金を支払わなければならなかったが、国土が焦土と化しては払えるはずも無かった。そのため、賠償金代わりにわが国に学ぶ者のために、かなり厳しい戦後環境の中で賠償留学生制度を設け受け入れてきた。

このことが、海外にわが国に多くの友人をもたらし、意識改革を行わせたともいえることだろう。

残念に思われることは、敗戦後、すべての歴史的事実まで歴史の授業で教えることまで、憚れる感情がもたらした結果なのか、多くの若い世代が近代史を

知らないということであり、周辺国への留学などを通じ、それらの国の都合の良い歴史を刷り込まれて帰国したりすることである。都合が良い悪いにかかわらず、歴史は正しく教えるべきである。