6月2013

この先の旧暦五月は、天の恵みの季節

生活

田一枚植えて立ち去る柳かな ~ 芭蕉

「あつめてはやし最上川」の時の「五月雨」は、誰しも五月の雨のことだと思うまい。しかしながら、「五月晴れ」は少し事情が違う。今年も黄金週間中にテレビニュースのお天気コーナーで、「五月晴れ」が連呼されるのに違和感を感じられてしょうがなかった。五月晴れは、鯉のぼりが元気に泳ぐ、青い空に白い雲の似合う風景ではない。長く降り注ぐ梅雨の合間に、ひといきつける晴れ間のことである。雨の景色を愛でる五月は旧暦、晴れの景色を謳う五月は新暦でよいのか。

さて、深く浸透している慣習なのだろう。端午の節句には、菖蒲湯に浸かる。確かに新暦の五月でも菖蒲は手に入る。が、菖蒲湯の感じとしては、雨に煙る水辺の花を狩ってきて、湯船につけるのだと思う。蒸せるような時節、濃紫色の花と鮮やかな緑が、なによりも清涼感を与えてくれることだろう。

この国が容づくられる仮定の中で、稲作の占める精神的、社会的意義の大きさがあった。碩学金田一晴彦博士の研究によれば、民俗学的な研究者の多くが、「田植えの神様」に関係するものは、接頭語として「さ」をつけるとしていると書き残している。たとえば、「さなえ」。「早苗」は、早を「さ」の当て文字にしているのであって、本来、田植えの神様に通ずる「さ」を接頭語にしているという。「さみだれ」は、「五月雨」。本来は、「水垂れ」に

田植えの神様の接頭語の「さ」がついて「さ水垂れ」が本来の姿らしい。

 

稲作は、東南アジアから北東アジアにかけて行われている。日本にいると感じられないが、北東アジアの水資源は、日本を除けば決して豊かなところではない。朝鮮半島で緑が豊かなところは、人工的なものを除けば限られている。中国は、内蒙古から北京郊外まで砂漠化進み、内陸も黄河流域が干上がってしまっている。沿海部も消費生活の向上とともに、農業地域の過度な水汲みによる塩害が起きている。1tの穀物を作るのに、いったいどのくらいの水が必要なのかと。その答えは、1000tである。書き間違いではない、1000倍の水が必要である。もちろん、天から降り注ぐ雨や豊かに存在する地下水脈の流れも加えての計算である。蛇口をひねれば、心配せずに飲料水に出来る水が出てくる。おいしい水も自動販売機やデリバリーサービスで手に入れられる。私たち日本人に、水が授かりものだという感謝の念や自然に対する畏敬の念が失われつつあることが、危機感を増幅させる。黄砂の嵐は、農水産資源への悪影響が顕著、大陸に浮遊する有害物質も一緒に運ぶため、健康被害拡大も懸念される。生命・財産を守るため、まず市民レベルの行動が喚起され、北東アジアの安定と平和に貢献につながるように期待したい。