8月2013

正しく理解されているの? No More Hiroshima! は。

生活

 五年ほど前のことになる。広島の市民活動家親子と話をしたことがある。令嬢は、ロンドンからの帰国休暇中であった。そのときに伺った話である。ロンドンで広島出身だといったら、「え!広島って、原爆で消え去った都市じゃないの!」って驚かれたそうである。たまたま、そのように信じ込まれた人に出会ったのだろうとおもったそうだが、その後も、知り合った友人知人は、皆そのような理解をしていたそうである。小職も過去にそのような認識をされていることを聞いたことがあった。「なぜ?」どうやら、「No More Hiroshima!」の語感がそのように感じさせるらしい。英語を母国語にしている人々に、そのように受け止められているとしたら広島の人々も不本意だろう。「No More Hiroshima! 」は、終戦当初からスローガンとしていわれて続けてきたのだろうか?仮にそうでなくても、いわれ始めて半世紀以上には成るかも知れない。

 

広島には、平和公園もあれば、平和通り、平和財団もあり、少なくとも義務教育レベルでの平和教育(被爆体験に基づく教育)のカリキュラムもある。しかし、本格的な平和大学や平和学を学べる高等教育機関はない。批判をしているのでは無い、残念に思っているのだ。「広島の悲劇を二度と繰り返さないで欲しい!」という思いが「No More Hiroshima! 」に凝縮されているのだと思うが、「思いが伝わらず」に「原爆が落とされた事実だけ」が大きく伝わり、「広島が吹き飛んでなくなってしまった」という理由から「No More Hiroshima! 」といわれているのだと思い込まれているのだ。イギリスの国民は、比較的親日家も多く、訪日した人々もかなり多いはずである、にも関わらずなんとしたことだろうか。ひとつ、伝える努力において足らないことを反省せねばなるまい。



被爆から8月で68周年である。被爆体験も風化しつつあると危惧されている。語り部たちもかなり高齢化し、また惜しまれながらも鬼籍に入ったひとも

多い。歴史的事実を学ぶことは大切であり、先人の艱難辛苦に思いを寄せることは大いによいことである。しかし、これから先の平和教育を考えると、戦勝国を誇る感覚の人々や旧日本国に対して被害者意識の強い人々に、十分に思いが伝わるようなスキルを身につけさせることが必須であろう。口伝の力で平和を訴えることなどは、平和構築目標に情緒的な手段で立ち向かうようなものでなんとも心細い。思いを伝えることを政府の外交と同じように考えるべきだ。

「二度と繰り返しません。」も心に雲がかかるようでしょうがない。日本人が、原爆を広島に落としたのでもない。因果具二、因果報恩で悲劇が起きたとでもいうのであろうか?日本人として「祈り」と「誓い」を見つめなおしたい。