8月2013

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども

生活

 炎暑は、いまだ収まりそうにはないが、お盆も過ぎると風の向きや朝冷えが、

明らかにそれまでと違ってくる。早朝には、ひんやりとした空気の中、朝露を

含んだ朝顔は、すでに秋の風情が漂う。叢で懸命に鳴く虫らの音には、夏に

感じる喧騒と違って、秋の感傷や無常ということばがふさわしい。

 

本当に、尊い命である。朝顔は、秋冷の中、花を急ぎ萎ませてしまう。実

に、はかないというよりほかない。「朝顔は、花をつけても一日しかもたない」として鴨長明は、「住居と住民とが無常を争う姿は、朝顔の露と同じ」と方丈

記の冒頭で美しく綴ってみせた。

日本人は、四季の彩が鮮やかな自然の中に溶け込むように生き、その季節

の移り変わりを美しく謳い詠み、思想や文学にも結実させてきた。樹木や草花、山岳や河川、池や湖、どんな姿の自然であろうと宇宙の理にかなったあり方

を全うすること、大切なることを説いてくれている。

 

俳人らは、好んで過ぎ逝く季節に愛惜の情を捧げる。やがて訪れる季節に

は、実りの期待などを寄せてきた。移り変わる季節とはいうが、秀逸な句な

ど、いつの間にか秋が忍び込んできたなどいう表現が作りこまれている。

意地悪にいえば毎年のことだから、俳人のいつの間にかという表現には、

多少、違和感がある。とはいえ、自然の恵みを分かち合い、時を同じく過

ごすという気持ちが強いがゆえに、独特の約束事は成り立つように思える。

土近く 朝顔咲くや 今朝の秋  ~ 虚子 ~

 

蝉。はかない命の代表のような存在だが。暑い盛りに鬱とおしいばかりに

鳴く様子は、命のはかなさを代表する。しかし、蜩(ひぐらし)が「カナ

カナカナ」と陽が落ちてから力なく鳴く様子は、さらに秋の季語をまとっ

ている感じがする。蝉のはかなさにも、趣がいろいろとあったものである。

日本人の感性は、不思議な感じもする。たとえば、「空蝉(うつせみ)」。

日本人以外のアジア人でも、蝉の抜け殻を見て無常感など感じるだろうか。

まして欧米人であれば、哲学や宗教学などを学ぶような人でないかぎり、

「空蝉」の世界を理解しようなどと思わないのでは。

ところで、今年は源氏物語千年紀。特に欧州でも、研究が盛んな源氏物語。光源氏が、終生忘れることなく心から愛した人の名は「空蝉」。身分が、光源

氏ほど高くは無かった「空蝉」ではあったが、立ち振る舞いの美しさや控え

めな生き方。良人をひたすら立てる生き方。そこに、日本や日本人を理解す

るヒントがあるだろうか。やがて、思索の散歩道を楽しむには、良い季節。