9月2013

二十四小節の白露

生活

  本年は9月7日が「白露」。「処暑」と「秋分」の間にあって趣がある小節。「暑さ寒さも彼岸まで」というが、朝晩の景色は確実に変わりつつある。

一番変わるのは、朝露の按配のような気がする。夏の朝露は、水蒸気が冷えて葉先についたような感じだが、これからは秋冷が葉の先にとどまる感じ。

 

葉の先でとどまっている露は、なにかを堪えているようで擬態的に見える。

だからこそ、堪えて流す涙も「袖の露」という言い方がしっくりするのでは

ないかと思う。露を自らの命に例えた言い方である「露の命」は、投げやり

ではないのだが、身の置き場所をよくわかったような響きがある。

 

「空蝉(うつせみ)」。欧米人や大方のアジア人が、「蝉の抜け殻」を見て生

命哲学的思索や無常観にすぐ触れられるかというと懐疑的な思いになる。

下手をすると塵や垢のように感じるかもしれない。

さらには、自らの存在を命がけで知らしめる虫の音はどうだろうか。

日本人は、虫の音を右脳で捕らえる傾向があるようで、情緒ある音として認

識するようだが、欧米人や大方のアジア人は左脳で捕らえるようだ。騒音雑

音として、虫の音を認識するようである。

確かに、自らの存在を知らせながら「縄張り」を主張したり、必死に雌を

呼び込もうとする虫の音に、日本人が情緒を感じること自体が特異なのかも

しれない。「あれ、松虫が鳴いているチンチロ、チンチロ、チンチロリン」と

唱歌にあったが、実際は、「ああ、松虫が叫んでいる」と認識すべきであろ

う。あるいは、「物陰で、鈴虫がリンリン鳴いているよ」は、「鈴虫が、命が

けで縄張りも護ろうと必死に戦っているよ」とすべきなのかもしれない。

私は、天邪鬼になって、唱歌をまぜっかえして批評する気は全くない。西洋

人も日本人もそのほかの世界の方も納得する詩歌のことを申し上げたいのだ。

 

私の敬愛する大衆作家の吉川英治が、作った句がある。

「虫りんりん 嵐の中を 鳴きやまず」

これなら、虫も日本人も、欧米人も大方のアジア人らも納得するだろう。

吉川英治は、虫たちの音を本質的なところで受け止めていたのではないかと

思う。吉川英治は、リンドウの花を愛していた。秋の野や山で見かける青紫

は、存在感があって凛とした佇まいである。1962年に逝ったので、もう

鬼籍に入って51年。高校生の頃、成人して「酒を嗜むのか」と聞かれたら、「舌先を猪口で洗う程度」と応えることに決めていた。吉川英治のエッセイにあった云いである。今年は、命日が白露と重なった。静かに飲むことにしたい。