10月2013

神無月。瑞穂の国、田園風景

生活

秋雨は、長雨という印象がある。ひと雨ごとに秋が深まり、また明けるごとに多くの実りを届けてくれる。さらに、ひと雨ごとに明けるごとに、山の錦絵を鮮やかに紡いで見せてくれる。まさに秋雨は、生けるものにとっての滋雨に違いない。

旧暦の10月は、神無月である。この月の名の由来は、八百万の神々たちが出雲の国に集まり留守をするからに違いない。ご存知の方も多いと思うが、出雲の国では、神様が集合しているので神有月という。何の疑問をもたずに、このことを瑞穂の国の民達は納得しているが、他の国の暦にかようなことがあるだろうか?例えば、米国の10月、メジャーリーグのワールドシリーズで活躍する選手をミスター・オクトーバーという。首都ワシントンだけ、あるいはNYだけオクトーバーといわずにアトラスとか、ゼウスとかいうようなものである。実に文化は、独特で固有なものであり、ある種偏向していて内向きである。

さて、稲穂の実りを収穫したら、藁を天日干して、さらに手を加えて形を変えたものとして活かす。蓑や草鞋、筵に俵、リサイクルとは副産物や連産品を

残さず活かすことをいうのだと思う。この稲も米も、年較差、日格差が大きい方が実りも大きくなる。要するに環境が厳しい方が、栄養を溜め込もうと自助努力し、味わい深く、子孫も貯蓄も残し、副産物も連産品もよいものを残すということだろう。「実ほど頭を垂れる稲穂かな」とも言われるが、稲穂が垂れる理由が特に大事である。

瑞穂の国に神無月が訪れ、細長い国の隅々まで、実りへの感謝で溢れるころ霜月はやってくる。初霜月などともいうので、霜が降りるから霜月かと思ったが、折口信夫博士の説によれば、神無月が上月(神様が上位なのだろうか)で、11月は10月の上の月に対して下の月になるので下月と呼ばれていた。次第に、当て文字の霜月が定着したのだという。折口博士は、季語に最も詳しい碩学のおひとりなので多分間違いないだろう。これまでも、折に触れ、繰り返し、暦や瑞穂の国のことに触れてきた。暦は、迷信や信心からのものとせず、古来、瑞穂の国の人々は、田畑とともに生きる農耕の民であって、農業暦こそ原点である。長く風俗習慣、あるいは生物学的感覚で生物時計があるのなら、生物暦が備わっていても可笑しくないという主張である。例は悪いが、リューマチ、腰痛持ち、喘息持ちの人が、天気や季節の変わり目に敏感であるが、前向きにセンサーを働かせ、時間の使い方を変えることには価値がある。いつも一日は24時間だが、日照時間は一年間に移り変わる。それを、運動や読書や仕事に自覚して生かせているだろうか。瑞穂の国の人は、生物時計も狂わせてばかり。人間も宇宙の摂理の一部。美しい田園風景を愉しみ、季節の果実を味わい、自らも自然と一体化することに価値がある。