10月2013

蕎麦屋

生活

 神田。この町は、神田錦町や駿河台、神田淡路町、神田神保町、神田美土代町などと多彩な町で構成をしている。千代田区内でも、日本を代表するビジネス街丸の内大手町とは、大いに赴きが違っている。にぎわいもあるが、すこし猥雑な感じもする。しかし、なんといっても元気に古い店が生き延びていたりしており、人の往来に活力がにじみ出ている。神田で生まれ育った人に聞いたのだが、「ここ(神田)は、良い水の汲める井戸に恵まれていたので、食べ物屋が昔から多かった」という。「神田の生まれだって?スシ喰いねえ!」は、遠慮なく水を使って新鮮なネタをさばき、おいしい水でシャリを炊けるから、「喰いねえ、喰いねえ」となるのだと思う。

神田には、封建時代や文明開化期のようすを髣髴させる仕掛けが、街のいたるところに溢れている。一平二太郎のひとり、池波正太郎ご贔屓の「まつや」も往時の姿のまま、元気に商いをしている。池波正太郎が愛したのは、なんといっても店の雰囲気であって、幼少のころの蕎麦屋を感じさせてくれるからだと書いている。「まつや」は事実、蕎麦だけを商っているのではない。普通の蕎麦屋にあるものは、すべてお品書きにあると氏がこれも書いている。

氏に言わせると、江戸から東京に移り変わる時代、どこにゆくにも弁当をこしらえなくてはならなかったが、蕎麦屋があれば弁当をこしらえずにすんで、多いに助かったのだといっている。最初に外食を商ったのが、蕎麦屋ということらしい。当然、喫茶店が無かった時代は、蕎麦屋をそのように使ったらしい。待ち合わせ場所として、老若男女に関わらず使ったというのだ。正太郎少年は、蕎麦屋で理由ありの男女が湿っぽい話をしているのも、白髪頭の商人が借金の申し込みをしているのも、就職の面接や大店の旦那が若い娘にお手当らしきものを渡すのも蕎麦屋で見てきたということだった。まこと、人生の往来、交差点である。また、戦後の廃墟で最初に店を出したのも蕎麦屋だったと氏は記述している。蕎麦屋は、こうなると単なる食事処ではなくなる。

 

話は変わる。赤穂浪士が、江戸に上ってきて本懐を遂げようと身分を隠して辛苦に耐えていた時、待ち合わせをしたのも蕎麦屋の二階だったし、討ち入りの日、集結したのも蕎麦屋の二階だった。落語でも、「時そば」は特別としても、蕎麦を名人芸で食しながらの聞かせどころも多い。蕎麦は、ほかの雑穀とは違って、冬の厳寒を越える難儀も必要もなく、春播きの秋収穫である。その理由を私の祖母は、「僧侶が旅や修業にあって、精進料理だけを口にしても蕎麦の高い栄養価が、僧侶の心身を支える。蕎麦は、徳の高い食べ物ゆえ、冬の厳しさを味わう必要がないように仏様が導かれたのだ」と聞かせてくれた。それにしても、国産の香り高い新そばで作った「蕎麦かき」を生しょうゆで食したい。