11月2013

なりたい人を選ぶのではなく、なるべき人を選ぶべき

生活

 先の秋の園遊会で、参議院議員の天皇陛下への手紙の手渡しが大きな議論に

発展した。皇室利用に「なる」、「ならない」とか、常識を欠いた行為との認識が「あった」、「なかった」の議論もどことなく寒々しい思いがする。

昨今の政治状況を見ていると、政治にできることは、実はたいして多くないのではないかと思うことが多い。総理大臣も将来、政権交代を演出しようとする野党の党首も、社会的弱者や平均的な生活を送る人々らの思いや願いが、眼にも耳にも十分に届いているように思えない。希望の持てるような話や一緒に我慢をしてみようと思わせるような誠実でやり手の政治家は、当分現れないのだろうか。

 

近ごろも社会的弱者が、行政サービスの打ち切りをされた後、亡くなったという話や本当に困っている人のために予算が執行されていないようなことが多い。限りある財政の中から、生活保護者への予算の計上も厳しいことは理解できるが、病気を抱えた生活保護者や生活困窮者の手当てを打ち切ればどうなるかぐらいは、いい加減に勤務している公務員にも理解できるのではないだろうか。言い訳は、いくらでもできるだろうが老婆心の足りない公務員は要らない。無作為の名を借りた殺人に、私の心証は近いのだが数年前の北九州市、自分と同世代の人間が病気を抱え、仕事もできずにいたのに手当てを打ち切られ、餓死した姿で発見されたと報道された。書き遺された、紙片に「おにぎりが食べたい」とあったという。死の直前の彼の気持ちを思うと今でも胸が塞がれそうになる。病気を治せれば、元気に働ければ、生活困窮を経験した人だけに社会に有為な仕事もできたことだろう。日本の金融制度にも不足しているが、誠実な人に「真に敗者復活が可能な仕組み」としての弱者救済制度がほしい。

 

日本の憲法によれば、文化的で健康的な最低限の生活を保障するとある。

ワーキングプアに陥った人々は、遠く最低賃金の及ばない生活の中で、それでも自立をしようと苦しみもがいている。行政は、財政難が理由にあるとしても、潜在的納税者に寄り添う態度を見せても良いはずだ。戦前は、人口の8割方が農業で生計を立てていた、生まれ在所で土地とともに生きる幸せも持ったが、自然災害や気候変動によって蓄えを持たない悲しさから、売りに出されたり口減らしに出された者も多かった。あの暗澹たる社会に後戻りする気分だ。

 

財政的な裏づけのないセーフティーネットなど意味がない。健康保険や年金など、このままでは破綻する社会保障を「無駄遣いや公務員削減」で補えるとする国会議員らは、正気で言っているのだろうか。選挙は、国の行く末を思う人らの思いや願いで熱くなるべきだ。今後も平均的な国民の暮らしを肌で理解できないイスタブリッシュメントらに政治は牛耳られるのだろうか。

人員不足もあって、東北復興予算の執行率が低い。ようするに計画通りに進んでいないということである。春が来れば、あれから3度目の春である。未だこのような調子で、東北の被災地に無理な辛抱を今後も強いるのだろうか。

 

選挙は、立候補が基本だが、議員になりたい者の中から無理して代表者を選んで砂を噛むような思いをしてもきた。そのことが、多くの間違いを起こさせてきたのではないか。本心は、議員にしたいと思う有為な人格者を勝手に署名制度でも使って送り出せるようになってほしい。切実な初冬の夜の夢である。