11月2013

司法改革のために、裁判員制度は有効か。

生活

 かつて、司法改革の目玉となるといわれ裁判員制度で判決が言い渡されつようになった。一般市民が、審議に参加する裁判が本格的にスタートしたことによって。当初の報道を見る限り、裁判員の審議態度や被告人質問に関して、概ね好意的なものばかりだった。

さて、裁判員制度に先立つ直前の裁判で、非常に不快に感じるものがあった。

覚えておいでだと思うが、事件は「千葉県内で父親に叱られた十九歳の少年が、

誰でも良いからと軽トラックで、金融機関の渉外を担当する職員を撥ね、さらに引きずり殺した。」ものである。容疑事実を争われることもなく、審議は淀むことなく進んだ。誰もが、不快感が極まったのは、判決に到るまでのことである。裁判長は、判決を言い渡した。「不定期刑で、懲役5年以上10年以内」と。このとき、裁判長も検察も弁護人も、まったく異存がなく、この刑に落ち着くと考えていた。凶悪な少年犯罪であっても、判例に基づき「こんなものかな」という気持ちがあったと思われてならない。刑法があるのであるから、悪戯に刑を重たくも軽くもできまいが、何の疑問も持たずに、判例に従い判決を述べるのであれば、なにも判事、検事、弁護士が揃わずとも、法務省でアルバイトを募って、判例を探して司法修習生の実務実習に当てたらよかろう。

また、忌まわしい事件であるが、数年前に幼児を虐待し殺人した少年が、夏休み直前の時期に長崎市内で行方不明となり、町が騒然と成った。少年は、心を病んでおり、死に場所を探して彷徨っていたのだ。

 

刑を犯した人間。特に、狭い了見や身勝手で殺人などの罪を犯したものは、気の毒の極みかもしれない。ある意味、人間として壊れていることが、万人に陽の下で明らかにされるのだ、普通の神経の人間なら耐えられないだろう。壊れているのだから、治しなさいということで更正が図られる。そのため、特に少年犯には気遣いが相当にされている。死に場所を探しに彷徨、無事に保護された少年は、治療が十分でなかったことが明らかである。更正もさせられず、治療の成果も芳しくなく、少年に死なれたら、犠牲になった幼児や遺族になんとしよう。また、更正ができなければ、再犯罪という陥り方もあるのだ。

さて、話を戻そう。「誰でもいい」と撥ねて引きずり殺した少年は、5年以上10年以内には、順当にゆけば釈放されるだろう。壊れた彼の心は、治って戻ってこられるだろうか。真に悔いて更正できるだろうか。一般市民の参加する裁判であれば、このようなことにも焦点を当ててほしいと切に願ってやまない。

オウム真理教関係の審理にも裁判員が参加するようになる。市民感情として

犯罪被害者や関係者の魂が、真に癒えるよう切に祈る。