11月2013

裁判委員に審議内容の事前通知

生活

 本来、裁判員制度は法曹界とかけ離れていた市民感覚を斟酌したり、量刑に対する国民感情を反映させるなど、司法改革の目玉であったはずである。

「刑事裁判」の場合、有罪が確定したときに「検察」が、主張する量刑の「八掛け」を「判事」が判決時の主文に入れるなどと、まことしやかに漏れ聞こえてくる。よくも悪くも「判例」主義で、メデイアの司法記者であれば、おおよその判決文の予想がつくような雰囲気である。国民の権利の中に、誰でも平等に裁判を受ける権利があることを小学生でも知っているが、現況は国民感情などからは大きくかけ離れているといえるので、すこしでも国民の意識との距離を埋められればと願っている。

 

冤罪事件。被害者の取調べで、一般市民のもつ素朴な疑問にも十分対応しようとしたならば、多少なりとも冤罪は防げたはずである。なにしろ、証拠調べ以前に真犯人に先にありきという傾向がある。兄弟姉妹が、「犯人だと言っている」とか。「自白を勧めている」とか、平気で警察が話しを作っていたという話は漏れ伝わってくる。気の毒なのは、看病もできずに、無罪を知らせることもできなかったという年老いた父母らの思いだ。この種の悲劇は、慣れや思い込みが罪を作らせるといえよう。

幼児や児童の虐待。陰湿で悲惨。児童相談所は、警察ほどの強制力がないということを盾に、無作為を決め込んでいるように思える。他方、子どもを虐待して死に至らしめた場合でも、これまでの判例を見て、なんとも罪が軽いものだと思ってしまう。犯人の人権、更正の可能性にあまりにも気を使いすぎてはいないだろうか。大人が、大人を監禁、暴力を繰り返し死亡させるのことと違い。大人が、幼児を虐待し死に至らしめるのは、同じ命を奪うにしても意味が違うと思えて成らない。考えてみてほしい、背丈が自分の2倍や3倍もあり、体重が6倍から8倍あるような人間から暴力を受ける子どものことを。痛みがわからず子どもを殺してしまう大人。弁護士が、幼児期に受けた暴力が原因で人格がいびつになったとか言って品の無い弁護を繰り返す。殺された子どもらの魂は、浮かばれない。先ごろ、実母とその内縁の夫に虐待され衰弱死、遺棄された松本聖香ちゃん。暴力で受けた痛みとひもじい思いの中で、悔しさはいかほどであったかと無念が胸を塞ぐ。

さて、遺体写真を審議で見せられたという女性が心的障害を受けて国を訴えた。そのためこのたび裁判所が、遺体写真を審議の過程で見せる場合に事前に打診することになった。しかし、これも行き過ぎが起きらないとも限らない。そうなると、ある種限られた人間だけが陰惨な事件の裁判員になれるということになりかねない。これも偏向裁判ともなりかねず心配の種になる。