11月2013

鍋料理がおいしい季節に

生活

 思うに世界中が幸せに包まれる時間というのは、実に短いように思えてならない。順境のときにも紛争は世界各地で起こり、経済禍にも意外な形で巻き込まれる。今もきっと、澹たる思いで空を見上げる人々でいっぱいだろう。

急傾斜を上ってきた中国人民も経済に暗雲が垂れ込め、さらにPM2.5禍

にも襲われ、勇気を持って夢を描けるような事情でもなくなってきたようだ。

日本でもバブル経済が崩壊した平成のはじめ、日本全体が背中を丸めて内向きになって暮らしていたように思われた。

当時、都内一等地に一坪で億万の土地を所有する資産家が、続出し相続税資産税対策で思い切った開発行為を手がけ、バブルの崩壊によって、1時間当たり数十万円という支払利息の発生する状態に陥られたことを覚えている。現実問題として、完済できる見込みはなく、立ちはだかる現実に苦悶し、自らの人生そのものを否定するかのように投げやりな状態に陥っていた人もいた。

経済的な敗者になっても、人生の敗者であると誰が決めつけられるだろうか。

一時的な敗北は誰にでもあるものだ。真の勝敗は、人生を全うするまで勝負はわからない。いわんや経済には循環がある。永遠の強者など存在しまい。

 

ところで、今冬を一層寒くさせそうなのが食品偽装である。

名門百貨店、名門ホテルの偽装が次から次に出てきたが、当初はご表示で乗り切ろうとしていた節があり、寒々しかった。

次から次に、お詫びの記者会見をみていると、良識とかはなくなったのかと

思わずにいられない。少なくとも、名声を誇っていたであろうこれらの企業は、

すでに一流でもなければ、名門でもない。もはや地に落ちたに等しい。

おせち料理の注文を取り扱うシーズンになってきたが、消費者の不信感を払拭できないと予想して注文をもあわせる企業も出てきた。賢明なのか狡猾なのか。かつて平成のはじめの経済低迷期、冬の暖房費を節約し、企業戦士らの家庭回帰志向が高まり、土鍋や鍋物用の食材が飛ぶように売れた。メデイアは、盛んに鍋物の調理方法やお値打ち情報を発信した。家庭を顧みることなく働きづめだった一家の柱が、家族団らんの時を得て、経済活動以外に家庭での共通の価値観を醸成した。また、地域活動もするようになり、家族と旅行や長期の計画を立てたりすることなども見受けられた。「失われた20年」時代に、実は多くの日本人が、かけがえのない財産を築いていたようだ。

さて、現在の経済危機では、比較的損失が小さいといわれる日本、欧米が傷んだ分だけ、日本の対外的な負担が国際的相対的な期待で増える。産業のコメといわれた鉄も需要が一気に冷え込むことだろう。あまった粗鋼を使って鉄鍋をつくり、世界に向かって家族団らん型メニューの発信も面白いかもしれない。

司法改革のために、裁判員制度は有効か。

生活

 かつて、司法改革の目玉となるといわれ裁判員制度で判決が言い渡されつようになった。一般市民が、審議に参加する裁判が本格的にスタートしたことによって。当初の報道を見る限り、裁判員の審議態度や被告人質問に関して、概ね好意的なものばかりだった。

さて、裁判員制度に先立つ直前の裁判で、非常に不快に感じるものがあった。

覚えておいでだと思うが、事件は「千葉県内で父親に叱られた十九歳の少年が、

誰でも良いからと軽トラックで、金融機関の渉外を担当する職員を撥ね、さらに引きずり殺した。」ものである。容疑事実を争われることもなく、審議は淀むことなく進んだ。誰もが、不快感が極まったのは、判決に到るまでのことである。裁判長は、判決を言い渡した。「不定期刑で、懲役5年以上10年以内」と。このとき、裁判長も検察も弁護人も、まったく異存がなく、この刑に落ち着くと考えていた。凶悪な少年犯罪であっても、判例に基づき「こんなものかな」という気持ちがあったと思われてならない。刑法があるのであるから、悪戯に刑を重たくも軽くもできまいが、何の疑問も持たずに、判例に従い判決を述べるのであれば、なにも判事、検事、弁護士が揃わずとも、法務省でアルバイトを募って、判例を探して司法修習生の実務実習に当てたらよかろう。

また、忌まわしい事件であるが、数年前に幼児を虐待し殺人した少年が、夏休み直前の時期に長崎市内で行方不明となり、町が騒然と成った。少年は、心を病んでおり、死に場所を探して彷徨っていたのだ。

 

刑を犯した人間。特に、狭い了見や身勝手で殺人などの罪を犯したものは、気の毒の極みかもしれない。ある意味、人間として壊れていることが、万人に陽の下で明らかにされるのだ、普通の神経の人間なら耐えられないだろう。壊れているのだから、治しなさいということで更正が図られる。そのため、特に少年犯には気遣いが相当にされている。死に場所を探しに彷徨、無事に保護された少年は、治療が十分でなかったことが明らかである。更正もさせられず、治療の成果も芳しくなく、少年に死なれたら、犠牲になった幼児や遺族になんとしよう。また、更正ができなければ、再犯罪という陥り方もあるのだ。

さて、話を戻そう。「誰でもいい」と撥ねて引きずり殺した少年は、5年以上10年以内には、順当にゆけば釈放されるだろう。壊れた彼の心は、治って戻ってこられるだろうか。真に悔いて更正できるだろうか。一般市民の参加する裁判であれば、このようなことにも焦点を当ててほしいと切に願ってやまない。

オウム真理教関係の審理にも裁判員が参加するようになる。市民感情として

犯罪被害者や関係者の魂が、真に癒えるよう切に祈る。

この先の人民元高と米ドル安の攻防

生活

 2013年も残すところ2ヶ月をきった。今年の世界の最大の関心事は、中国経済の動向であった。仮に無事、年を越せたとしても中国の資産バブル崩壊に注目が集まるに違いないだろう。

 

中国と米国の凌ぎあいで計算違いがお互いに出たとすれば、習近平国家主席の米国訪問におけるオバマ大統領との会談ではなかったかと思われる。

世界最大の米国債保有国である中国の利益恩恵のために、オバマ大統領が習

主席の意向を汲み取って、中国に大きな恩恵を気遣って授けてくれるに違いないと思っていたに違いないからである。結果は世界が周知のとおりで、期待に

かなうものではなかった。

 

一般的に、外国為替取引において自国の経済が順境にあるときは、自国通貨をより強くと願うに違いない。他方、逆境にあれば、国際競争力、輸出競争力の観点から、都合のよいような自国通貨安を願うに違いない。

米国は、ここ数年景気浮揚のために、思い切った金融緩和を行ってきた。

その間も、中国は輸出によって稼いだ外貨のおよそ3分の1を米国ドルで保有

し、そして運用してきた。米国としては、長期的に米ドル安を維持し、増刷したドルで返済ができればありがたいに違いない。

世界最大の国債保有国の中国が、米国の都合のよいような国際金融経済の運営にだまって居られないのも理解できるが、ここにきて大きな計算違いの要素が出てきた。共和党の保守勢力である茶会(テイーパーテイー)が、自らの主張の達成のためには、デフォルトも辞さずと強硬姿勢を貫こうとしていることだ。

米国議会にしてみると、民主・共和党のいずれにとってもまさかの展開である。これまでは、国内政治にあっては自党支持者に財政負担の増加の阻止のために支払いの停止をデフォルトも辞さずという発想自体が存在していなかった。

かような展開になると中国が言い分を聞いてくれなければ、米国債を投売りすると言い張ったとしても、もはや迫力もない。

現実に米国債を中国が投売りするとすれば、ユーロや円にも連動するので、

外国為替、証券、株式でいわゆるトリプル安が起きてしまう可能性がある。

外国資本の流入に期待せざるを得ない中国にとっては、実はもっとも避けたい事態に陥る可能性が高くなる。このまま米国の望むままに米国債を買いましてゆくのも地獄であり、一気に投売りしても地獄を見そうである。今は、静かに米国債を買い増ししてゆき、管理フロート制度に基づき長期に人民元の価値を高める政策以外に有効な政策はないものだろうか。

たいめいけんのオムライス

生活

 NHKの朝の連続ドラマ「ごちそうさん」が高視聴率を維持している。

女優の杏さんの人気によるところも大きいが、グルメの話題は老若男女にかかわらず関心も高いようだ。

ところで、ドラマで取り上げられた「オムライス」。オムレツとライスを別々

のして食べていたものを一緒にしてみたらどうか?ということで生まれたらしいのだが。ドラマのオムライスは、追ってオリジナルレシピにて、コンテンツ

セールを戦略的に行うらしいのだが、「たいめいけんのオムライス」がモデル

になっているというまことしやかな噂がたち、いつも混み合う「たいめいけん」

がいっそう行列が長くなっているようだ。

日本橋には行きつけの店もあり、「たいめいけん」には寄らせてもらっている。

オムライスは、いくつものメニューがありたのしませてもらっている。

たまご料理は、火加減が難しいらしいが、たまごの焼き具合とケチャップの

色合いが実に美しい。

小生が、「たいめいけん」にゆくようになったのは、池波正太郎氏が、贔屓にしていたことがあるが昔ながらの洋食屋さんの雰囲気と「たいめいけんの人気メニューのラーメン」がなんともいえず魅了されていることにある。

 

ところで初代の主、茂出木心護氏の葬儀のときのことを孫の希代子さんが作文にしているのだが、池波正太郎氏がそれを自らの著書で紹介し、健全に家庭で生きている少女が端的に現れていると書いている。それを取り上げてみたい。

=作文=

私がお使いから帰ってくると、おじいちゃんは、車を降りるところだった。半年という長い病院生活から、タンカに乗って帰ってきたのだ。私は、おじいちゃんの姿を見ると、もう、まぶたがあつくなってきた。急いで家に入り、母の部屋に駆け込んだ。そこには、いとこが6人そろっていた。私は、わざと笑顔でいった。「おじいちゃん、帰ってきたよ」

みんな会いに行こうとしなかった。私も動かなかった。息をしていないおじいちゃんに会いたくなかった。「子供たちみんないらっしゃい」母の声で、やっとおじいちゃんのところへいった。

おじいちゃんは、北向きに寝ていた。着物を反対にかけていた。おなかに包丁をのせていた。ふつうの人は、小刀をのせるそうだが、おじいちゃんは料理人なので、なによりも大事にしていた包丁をのせた。(中略)おじいちゃんに最後にあったのは、五月二十五日ごろ。若いときからやせていたおじいちゃん。今では、骨に皮がついているようだ。私はおじいちゃんに会いに行ったのに、顔を見なかった。顔を見たら泣いてしまうだろうと思ったから。(中略)おじいちゃんとお別れだ。じゅずをしっかりとにぎった手に汗がにじんでいた。おじいちゃんはおかんに入れられてしまった。なんでいれるんだろう。なんで焼いてしまうんだろう。胸がはりさけそうな気持ちだった。(中略)おじいちゃんは、

最後まで、お店にゆきたいといっていた。おじいちゃんがつくった「たいめいけん」はもうすぐ五十周年。それまでは、生きていたかったと思う。かわって上げたいと思う。みんなを悲しませたおじいちゃん。おじいちゃん、今空のどのあたり、今頃原稿書いているのかな?凧をあげているかな?お料理をつくっているのかな?おじいちゃん。=

 

池波正太郎氏に茂出木心護氏は、「女房は、私が一所懸命働いているところを見て、一目惚れしたに違いないと、私は思っています。私だって若いころはなかなかいい男だったんですから。結婚式は、ごく内輪で六畳一間であげ、式の

ごちそうは全部、私の手作りでした。」と語っていたという。この祖父の生き様がちゃんと健全に育った少女の中に生きていると池波氏が説いている。

小生も遠く、血脈を思い。両親、祖父母、兄弟姉妹、親戚一同に思いを馳せ、ご無沙汰を詫びつつ、「たいめいけん」でオムライスを食してみたい。

共感は、社会を動かすという実感

生活

 本コラムで6年前のサントリーホールのリニューアルとバリアフリーの話しを書いた。そして、文中で要介護の家族を温泉宿に連れ出したい家族の思い。かたや、要介護のお客様(介護職の人にとっての)を温泉宿にお連れしたいという職業人の思い。それを受け入れる宿がないと大いに大いにぼやいた。

このことが、功を奏し温泉旅館業者に変化がでてきていることを今回は紹介したい。

重度の要介護の家族に代わり、あるいは福祉サービスで身を粉にして働く方々の家族の思いを受けて、なんとか受け入れてくれる温泉宿はないものかと知人、友人に徹底的に相談してみた。結果、交渉を代行してくださった企業が

あった。結果として、シルバースターの要介護の方を受け入れる宿として審査基準を充たした宿が3箇所。受け入れに伴い、普通のお客様同様のサービスを提供しますという宿が15箇所であった。この話を感動もあり、あちらこちらで話をしていたら、それらの施設にアクセスが急増し、代行会社のほうも要介護の人々を受け入れる温泉宿のカテゴリーで検索エンジンの上位6番手までになった。利用に応じて費用の負担はあるが、これも社会的な弱者を支援することにもなると確信した。まさか温泉の検索ジャンルで上位に来る社会貢献のアイデアが生まれるとは思いもしなかった。代行サービス会社もジャンルわけが多少異なる検索エンジンで、要介護者受け入れ温泉宿の情報提供が功を奏し、その部門の上位3位になったと伺った。驚きである。

 

その昔、ぼやき漫才が一世を風靡した。笑える話が基本的に多いのだが、時には、なるほど当時が、すぐさま抗議行動を起こそうかと思わせるようなトピックスもあった。そのぼやき漫才のキメ台詞、「責任者出て来~い!」は、お約束の的外れな物言いもあったが、権力者に抗戦する笑いの狼煙のようでもあり、子供たちの口々まで伝播していった。そこに、関西特有の被虐的な笑いもあったのだろうが、なによりも共感が大きく横たわっていたのだと思う。それが、時に理不尽に抵抗する波となり、ささやかな庶民の不満が、うねりとなって人々の心に伝播したのだろうと信じている。皆、年をとれば、やがて要介護者になる。少子高齢化の社会とは、要介護の方々の社会参加を助けなければ、成り立たない社会をも意味する。少子高齢化社会の土台を支えてゆくのは、若い世代の方であり、これからのご苦労に敬意と感謝を捧げねばなるまい。他方、敗戦した小資源国をここまで豊かにするために、文字通り身を粉にして働いてきた高齢者の方々がいる。巨額の税金を投入する話しではなく、市民による要介護者受け入れ温泉旅館ネットワーク構想の話である。どうぞ、これらの温泉が増えることに同意の皆様は、ご一緒に「受け入れ温泉旅館ふやせ!」とぼやいていただきたい。手を上げてくださる宿がいくつも出てくるに違いない。まだまだ、世の中捨てたもんじゃない。「責任者、出てこ~い」大いにぼやこう。

サントリーホールのこと。バリアフリーのこと。

生活

 サントリーホールがリニューアルされてから6年になる。

さて、そのリニューアルの内容なのだが、目玉はバリアフリー化と大型液晶ビジョンであった。当時のフジサンケイビジネスアイ紙の9月1日付記事によれば25億円の予算をかけたと書いてある。さすがにサントリーさんだが、民間企業のメセナ投資としては特筆すべきである。財政が厳しいご時勢だが、財政規模の大きい文化振興予算のとれる自治体でも容易でない投資を民間の事業が実践している。サントリー社の財団法人だからできることなのか。否定はしないが、それは正解に遠いと思う。財団の基本財産は、額に汗して稼ぎ、税金を納めたあとの蓄積である。必死に努力をして、非上場の株であろうと企業価値を高め、その果実を基本財産に拠出したに他ならないのである。

 

最近、福祉関係の仕事をしている知人にあることを頼まれた。ひとつは、交代で365日24時間、身を粉にして働くスタッフとその家族が、安全で安心、安価でいつでも利用できる温泉旅館ホテルの提携。もうひとつは、費用がかかってもいいから温泉につれていってほしいという要介護の方を受け入れてくれる温泉旅館ホテルのルート開発であった。北は、北海道から南は九州までの範囲で探してよいということだったので探していた。ふたつめの宿題は、結論として完全受入可能なところと受入可能な応対をするという温泉旅館が、全部で15件ということであった。いかがだろうか、これを聞いて多いとお考えの方はおいでだろうか。お金に糸目をつけないということでなく、普通に気軽に利用したいものである。人は、誰でも年をとると体の機能が衰える。つまり、人は長生きをすれば例外なくハンディキャッパーになるのだ。要介護の人は、一人では温泉にゆかれない。当然、介助者が同行するのだ。客単価も高くなる。この超高齢化国家において、いまだに受け入れが少ない有様は情けなく腹立

たしい。

 

6年前のその年、チャイコフスキー音楽コンクールは、日本人として晴れがましい思いをした。バイオリンの神尾真由子さんが、諏訪内晶子さん以来の優勝を見事飾ったのだ。その彼女は、当時アントニオ・ストラヴァリの作った300年ほど前の名器を使用していた。6000万円ほどだったと記憶している。その名器は、サントリー社所有のもので、才能をいち早く見出した同社が無償で貸与したものである。これは、深い芸術への造詣と眼力の必要な究極のメセナかもしれない。

話をもどそう。無償ではなく、応分の負担をして健やかな心身を自助努力で保とうという人々は多い。官も民も、財政・経営に血を通わせてほしいものだ。

ボランテイア考える

生活

 ボランテイア(表現がなじまない場合は、非営利活動もしくは公益を目的とした活動)活動で日々、額に汗をしておいでの方々は、なにかしらの動機付けやきっかけがあって参加されていることだろう。

他者の何がしかの幸福のために、自分の時間を割こうという行為は尊い。

それを、なにも疑問を持たずに行っているとしたら至上の幸福といえるかもしれない。古い言い方だろうが、父母らの行動を日ごろ見て学び、善徳を知らず知らずに積む子供たちは、まさしく国の宝である。



さて、以前放映されたNHK大河ドラマ「篤姫」の今泉島津家の領地は、薩摩半島の南、名だたる温泉保養地の指宿に近い。その指宿との境、鹿児島市南部に喜入という地がある。この地は、わが国の最大級の石油備蓄基地があることで知られる。ここに瀬々串小学校という小さな学校が在する。全国に先駆けてボランテイアゆうパックをおこない、1990年からはじめた事業を大いに顕彰され、先ごろボランテイア功労賞を受けた。

中心になったのは、児童十数人であったが、保護者や農業指導をおこなうサポーターがしっかり脇を固めた。そして実りの秋にベニサツマとコガンを5Kgづつ箱詰めして、手書きのメッセージを添えて全国に発送している。

益金は、震災で被害を受けた人々に贈られてきた。

 

児童らは、人のために一生懸命に働くことを当たり前と学んでいる。

遊びたい時も気持ちを抑え、きつい草取りを行う。日照りの時には、汗と泥まみれになり水遣りも行う。保護者らは、自立心が育つことを阻害しないように教えを請われない限り見護ることに徹する。

イモたちも、子供たちの願いや祈りに大きな実りで応える。

 

食の安全や安心が、国民の潜在意識の底で、もはや損なわれてしまったも同然の今、他者のために額に汗して丹精して食べ物を作り送り出す意味。益金を他者の幸せのために差し出す意味。それを十七年も続けたことの意味。それを今、考えてみる。子供らは、毎年進級し入れ替わる。サポーターの保護者らも入れ替わる。みんなで力を合わせて相手にするのは、気難しいお天道様である。淡々と善行を続けている様を見るにつけ、本来、教育とはかようであるべきだと思い、食育も本来、自他共に幸福であるようにと学ぶことではないかと思い知らされる。ボランテイア活動の生命線は、ことさら難しい事案にあるのではなく、身近にある小さな善行を淡々と積み上げてゆくことにあるような気がしている。

なりたい人を選ぶのではなく、なるべき人を選ぶべき

生活

 先の秋の園遊会で、参議院議員の天皇陛下への手紙の手渡しが大きな議論に

発展した。皇室利用に「なる」、「ならない」とか、常識を欠いた行為との認識が「あった」、「なかった」の議論もどことなく寒々しい思いがする。

昨今の政治状況を見ていると、政治にできることは、実はたいして多くないのではないかと思うことが多い。総理大臣も将来、政権交代を演出しようとする野党の党首も、社会的弱者や平均的な生活を送る人々らの思いや願いが、眼にも耳にも十分に届いているように思えない。希望の持てるような話や一緒に我慢をしてみようと思わせるような誠実でやり手の政治家は、当分現れないのだろうか。

 

近ごろも社会的弱者が、行政サービスの打ち切りをされた後、亡くなったという話や本当に困っている人のために予算が執行されていないようなことが多い。限りある財政の中から、生活保護者への予算の計上も厳しいことは理解できるが、病気を抱えた生活保護者や生活困窮者の手当てを打ち切ればどうなるかぐらいは、いい加減に勤務している公務員にも理解できるのではないだろうか。言い訳は、いくらでもできるだろうが老婆心の足りない公務員は要らない。無作為の名を借りた殺人に、私の心証は近いのだが数年前の北九州市、自分と同世代の人間が病気を抱え、仕事もできずにいたのに手当てを打ち切られ、餓死した姿で発見されたと報道された。書き遺された、紙片に「おにぎりが食べたい」とあったという。死の直前の彼の気持ちを思うと今でも胸が塞がれそうになる。病気を治せれば、元気に働ければ、生活困窮を経験した人だけに社会に有為な仕事もできたことだろう。日本の金融制度にも不足しているが、誠実な人に「真に敗者復活が可能な仕組み」としての弱者救済制度がほしい。

 

日本の憲法によれば、文化的で健康的な最低限の生活を保障するとある。

ワーキングプアに陥った人々は、遠く最低賃金の及ばない生活の中で、それでも自立をしようと苦しみもがいている。行政は、財政難が理由にあるとしても、潜在的納税者に寄り添う態度を見せても良いはずだ。戦前は、人口の8割方が農業で生計を立てていた、生まれ在所で土地とともに生きる幸せも持ったが、自然災害や気候変動によって蓄えを持たない悲しさから、売りに出されたり口減らしに出された者も多かった。あの暗澹たる社会に後戻りする気分だ。

 

財政的な裏づけのないセーフティーネットなど意味がない。健康保険や年金など、このままでは破綻する社会保障を「無駄遣いや公務員削減」で補えるとする国会議員らは、正気で言っているのだろうか。選挙は、国の行く末を思う人らの思いや願いで熱くなるべきだ。今後も平均的な国民の暮らしを肌で理解できないイスタブリッシュメントらに政治は牛耳られるのだろうか。

人員不足もあって、東北復興予算の執行率が低い。ようするに計画通りに進んでいないということである。春が来れば、あれから3度目の春である。未だこのような調子で、東北の被災地に無理な辛抱を今後も強いるのだろうか。

 

選挙は、立候補が基本だが、議員になりたい者の中から無理して代表者を選んで砂を噛むような思いをしてもきた。そのことが、多くの間違いを起こさせてきたのではないか。本心は、議員にしたいと思う有為な人格者を勝手に署名制度でも使って送り出せるようになってほしい。切実な初冬の夜の夢である。

強さを保とうとする人民元は、世界から信任され続けるか?

生活

 中国を話題にする時は、ほとんどが経済問題か関連問題ではなかろうか?

それにしても、日本以外のメデイアは中国政府が発表する経済統計などを鵜呑みして発表することもなく、独自の視点で情報発信するようだ。

李克強総理自ら、総理就任以前に中国の統計発表はあてにならないとするくらいなので、李克強総理の判断基準のエネルギー消費量、鉄道輸送量、金融機関の融資残高の三つを海外メデイアも注目しているようである。

さて、GDPの伸びも怪しいと考えられ、さらにPMI製造業購買責任者指数も前倒し発注で需要喚起、各種在庫増も見込み生産需要に基づくとの見方が強まっており、客観的に把握できる中国の強さを表す数字はというと、過去8年間で対米ドル比で34%も上昇してきた人民元がある。

 

この人民元は、管理フロートにより完全に政府当局者の手により上昇を管理

されており、主要国際通貨とは事情が異なっている。

また、外貨獲得後、似合う国債を国有銀行に消化させる政策もとってはいるが、日本のように金融機関から家計に行き着くまでに100%消化できるという事情にはない。

他方、中国の財政規模は大きく、実質的には無借金財政であるといわれる。

これは、社会福祉の充実によるセーフテイーネットが不十分であるということの裏返しでもある。

様々に評価をされている人民元であるが、GDPの大きさやグレーターチャイナ(大中華圏)の存在もあり、人民元の決済可能な国や地域が増えてきている。

台湾(中華民国)でさえ、外貨準備高に織り込んでいる。

 

かような状況にあっても中国人民元の信任は高まってきていない。

中国の国家破綻リスクを心配する声は大きく、それらも評価に反映している。

さて、このたびのノーベル経済学賞受賞者に中国バブル崩壊を2009年には公言していたロバート・シラー(エール大学教授)氏が選ばれた。

氏は、行動ファイナンスが専門であるが、心理的な面から投資家の行動を予想分析する専門家である。中国のバブル崩壊は、予想できると2009年に広東省で開かれた学会で明言している。このとき、米国の住宅価格が平均所得の8倍から10倍であったときに、中国では上海や広州などの大都市で住宅投資が盛んなところで、すでに年収の36倍程度に達していた。その処方箋は、不動産バブルに走る富裕層の行動を抑えるために所得税のアップを行うべきだと。

共産党幹部が富裕層という事情で、改革は進まず、失望を買っているような状況である。人民元は、強含みだが、それでも信任は高まりそうにはない。

ミスサイゴンのキム。そしてレミゼラブルのエボニーヌ。

生活

2005年の11月6日(日)は、朝からどんよりした空模様で、晩秋の陽気にしては空気が重く、不思議と湿気が多い感じがした。やがて大粒の雨が落ちてきて、翌朝まで一時もやむ事は無かった。華やぐ都の空が号泣しているように思った。

この日、歌手本田美奈子(本名:工藤美奈子)が逝った。享年38歳。

「アフガ二スタンからインド亜大陸にかけての洋の東西交流がなければ、本来、仏様に手向ける御灯明が、西に行って教会の銀の燭台が生まれることも無ければ、白血病で舞台降板を余儀なくされた本田美奈子の出演するレミゼラブルのジャン・バルジャンも生まれることは無かったろうにと。」ポップス歌手としてデビューした本田美奈子だったが、天性のものがあったのだろう、最期のアルバムは、クラッシックを歌うものだった。その昔、舞台「ミスサイゴンのキム」役に一万数千分の一のオーデイションに勝ち抜き脚光を浴びた。これは、当たり役になった。その後、松たか子がミスサイゴンのキムをつとめたが、どうしても本田美奈子のイメージを払拭できなかったとおもう。松たか子の問題でなく、それだけの「はまり役」だったとも言えよう。

「レミゼラブルのエボニーヌ」役、これは、役というより、もはや天職のような感じがした。本は、申し分もなく、劇場に観客さえ入れれば、完成形の芸術作品。舞台裏方も役者も後援者も申し分のない体制で、これからも語り継がれてゆくだろう作品。その中にあっても、本田美奈子の存在は、ひかっていた。歌唱力や表現力も備わり、最高のパフォーマーにして、努力を惜しまぬ姿勢が歌と演技に。宙に目を泳がせ、うつろで悲壮感漂う歌にしても、地の底から湧きあがるような歓喜の歌にしても一切の妥協を許さないような歌い方に見えた。

 

泉下の本人は、安らかに眠っていることだろうか?

最期の最後まで、舞台に再びたつことを念願し、レコーディングのことを気にかけていたという。どうすれば、そんな境涯に立てるのだろうか、と思った。

「皆さんに歌を通して、こころ豊かになってもらいたいから。」そういうことだったらしい。白血病は、本当に酷い。副作用で、この天使のような女優の美しい髪も抜け落ちてしまったという。舞台に立って歌うことは、本人にとって仕事以外の何ものでもなく、生きる糧であり、気負い無く言えば生活である。

一般人にしてみれば、きらびやかな世界のヒロインの儚くも短い人生。しかし本質は、自らの使命を知り、人生を集約させながら、多くの人に勇気と希望を語った市井に生きた命。東から渡ったジャン・バルジャンの銀の燭台、灯る蝋燭の自らを燃やしながら、まわりを温かく照らす有り様。それは、彼女の望んだ選んだ生き方のように見える。懸命に生きた人生は、短くとも本当に尊い。

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