なぜ、主語を省いて話しても日本語の会話は成り立つのか?

生活

 その昔、政府開発援助(ODA)の二国間協議などに関わっていたことがある。

国家間の正式協議であるので、議事録が二ヶ国語で公式に残される。通訳も国家レベルに相応しい者が選ばれ、その任務にあたる。このような公式の議事の場で、しばしば通訳の方に小職はお叱りをよく受けた。つい、「主語」を抜かして話をしてしまい、その都度、お叱りを受けるのだ。曰く、「主語は何?主語は何?!ですか」と。終いには、「主語!主語!」と通訳さんまでが、主語抜きになるようなことに。日本人の多くが、気づいていないと思われるが、日本語は、主語が無くても会話が成り立っているのだ。

たとえば、恋人同士の会話で「愛している」といえば、主語を聞くまでもなく、言っている本人が相手に言っている言葉に相違ないと思ってよい。だが、英語の場合“I LOVE YOU”と必ず主語の”I”が入る。中国語とて同じで、主語の”我”がなければ、おかしくなる。誰が誰を愛しているのかと。ラテン語や多くの言語が、主語を会話に必要とする。そうでなければ、前出の通訳さんではないが、会話に混乱を起こすのだ。

 

どうして日本語の会話は、主語抜きで成り立つのだろうかと不思議に思っていた。そして、昨年ある新聞記事を読み、その理由について気づかされたような思いをした。それは、フランスに俳句を教えるために、文化交流大使として派遣されている俳人の”黛まどか”さんが、東日本大震災翌日の3月12日にフランスで行った講演内容であった。

講演の冒頭、「津波は花も虫も人も同じように飲み込んだ。無慈悲に。理由も理屈も無く。昔から繰り返される天災が、日本人に自然への畏敬の念を植えつけた」と。日本人の自然観をかように説明すると、聴衆の多くがうなずいたという。「自我」を原点に近代哲学を確立したデカルトの国で、「自分を出さずに自然を詠む」ことを教えるのは難しい。それでも、俳句の基礎「有季定型」を教え、ショートポエムではなく、俳句を選んだということが、「型」を選んだということだという認識に立つという。

季節が巡り、草木が豊かに芽吹く。しかし俳句は、けっして辛い状況でも、「生」への思いを述べない。そして、風景を俳句に昇華してゆくことで思いを託してゆくと黛さん。

日本人は、太鼓から自然に向き合い、自然災害を無条件に受け入れ、生命観を養ってきたのだろう。自分が、生きる人生であっても、自分が生かされている存在であると、遺伝子の中に刻み付けて生きてきたのではなかろうか。また自分が、生きているときでも、あくまでも自然が主体である。自分は、あくまでも自然の中で、客体として存在しているように生命を俯瞰するような感覚が日本人にはあるのではないかと。

 

さて、尖閣諸島を巡って日中間の摩擦が収まる気配がない。漢字を拝借し大和言葉にあてて文化を発展させた日本。これまでも、外来語の漢字(中文訳)表記を日式漢字から逆輸入して活用してもきた中国。

民族の根底にある精神的なよりどころも日中それぞれに、共通するものがあると信じたいのだが、平和的な解決はなぜにこうも困難なのだろうか。

 

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