ビールの神様S先生から学んだこと

生活

S先生との出会いは、1996年の9月だった。当時、中国へのODA(政府開発援助)の中国国有企業の近代化プロジェクト(民営化)に専門家としてともに派遣されたのだった。中学校のとき、将来の夢を書き綴ったノートに、真っ先に五丈原に行って諸葛亮孔明の足跡を尋ねたいと記したが、その五丈原のある市に派遣された。足掛け2年の担当期間に、孔明の墓や蜀の古戦道や太公望の廟、周王朝の史跡、劉邦や張良の廟も尋ねられた。思いの深い仕事だった。

S先生は、T帝国大学の卒業でドイツ留学経験があり、英語にも堪能だったが、中国語は苦手の様子だった。しかし、真剣でいれば語学の壁など簡単に越えられると仰せだった。あるとき、需要の問題から送電が、ストップされ工場が停電となったことがあった。工場幹部は、休めると喜んだが、S先生がそれを阻んだ、「電力が無くても仕事は出来る」と。中国人が「充填機が動かないとビールを出荷できない」と反論した。S先生は、電力仕掛けの機械を使わず、手仕事で瓶にビールの充填をはじめた。1本、2本、3本、10本、20本、50本と

泡が少しは出るが、落ち着いた頃合を見計らい眺めると、100本並べても定量の線で皆揃った。感嘆の声が工場に響いた。が、S先生「日本人なら簡単に出来ることだ」と。S先生の言われることは、極端な事ではなかった。戦後会社に入社したころは、帝国大学出の学士であろうと、恩賜の金時計を持とうと皆、雑巾がけから仕事を始めたとのこと。現場の親爺や先輩にこき使われながら、工具の使い方から溶接に至るまで何でも現場仕事をやれるようになるとのこと。それが、日本の強みであると。さて、強烈なデモンストレーションの後、中国でもS先生はビールの神様と言われるようになって。

そのビールの神様を、焼酎の国鹿児島にお招きした事があった。高名な先生に父が会いたいと懇願したのと、本当にそんな先生と一緒に小倅が、仕事をさせてもらえるのかという疑問が解消しなかったようである。当然である。

父が、曽祖父の代から贔屓にしている割烹旅館に一席もうけ、乾杯の段になった。父「女将、Aビール!」女将「先生、うちはKビールですよ。ご子息がM商事に入られた時に、そうしてくれとおっしゃったじゃないですか」父「なんとかせんか、女将!わしに恥をかかすのか」と、その時、S先生が、上げた拳をどうしたものかと思案げの父の足元に膝まづいた。そして、「先生、お願いですから、Kビールを戴かせてください。」続けて「一時期、A社はシェアが落ちて、つぶれるんじゃないかと夕陽ビールとまで言われました。」「研究費も無くなり、待遇が厳しくなった中、なにくそKビールには負けないと頑張って来ました。」「SDビールは、そんな思いが凝縮した魂の塊なのです。」「今日、私があるのは、Kビールさんがあったからこそです。」と。女将が番頭を呼んだ、「酒屋を呼んで、全部Kビールを返却しなさい。うちは、Aビール党になった」と。

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