坂の上の雲を仰ぎ見つつ

生活

  「窓は夜露にぬれて~」と歌う小林旭の北帰行。原歌は、旅順高等学校の寮歌である。歌詞の一番こそ、小林旭の歌う曲と同じだが、二番以降は高等学校の寮歌にふさわしい詞が続く。旅順高等学校は、海外に作られた唯一の高等学校であり、特に東京帝国大学理科への進学が強かった。戦後、日本の科学発展に特に貢献した碩学にこの道を辿っている人も多い。旅順高等学校が多くの人材を輩出した背景には、歴史的なもの以外に自然環境や露欧につながる大陸の入口ような雰囲気が影響しているように思う。旅順は、今では北の香港、大連市郊外の港町。もともと、天然の良港であって水産資源に恵まれ、経済地理にも恵まれている。

 

冬は、風が強く耳を出して歩いていると、ちぎれるのではないかとおもうほど「風が痛い」。ほっておくと耳が、餃子のように腫れてしまうほどである。(寒い地方では、冬至に餃子を食す)夏は避暑に適するが、一年を通して霧が発生しやすく、船乗りや航空関係者を泣かせる。さて、この旅順を舞台に悲惨な戦争が100年ほど前にあった。二○三高地の奪取にいたるまでの物語は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しい。世界の列強の中を恐れていた日本。露との開戦を回避できずに夥しい犠牲を重ねてしまう。後に明治天皇に殉じた乃木希典元帥は、子息の命を散らせながらも、恥辱と悔恨の日々から逃れられなかった。二○三高地に愚直なまでの正面攻撃と屍の山。勝利と引き換えにしては、あまりにも失う物は大きかった。

無傷の勝利のようにいわれる日本海海戦にしても、負けない戦を緻密な計算どおりに行ったことが驚異である。湿度や温度、さらに風によって波の高さを想定し、船のゆれと砲撃の的中率制度を高めながら、演習を気が狂うほど繰り返してゆく。実に日本海海戦は、ほぼ予定どおりに戦い、そして勝ったのだ。が、しかし、余りにも勝ちっぷりが良すぎて困った。

 

ポーツマスに発った小村寿太郎は、賠償金や領土割譲等過度の期待の中、送り出された。実態は、戦費が嵩み財政難に苦しむ日本は、即刻和解する必要があった。しかし、国民は実態を知らず、二○三高地に代表される激戦で失った我が父や子や夫、兄弟の義憤を抱えるのみである。日露戦争後、日本も対露賠償交渉を弱腰と受け取った輩が暴動を起こし、交番や政府高官の焼き討ちを繰り返した。その時から百余年。朝鮮半島に進出した時からも百余年経った。今は、その国で社会への不満も含むのだろうが、反日を理由に過激な行動も起きている。「坂の上の雲」を目指し、只管に走った日本。挫折を知り、再び走る日本。今は、どの「坂の上の雲」を追うのか。

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