漢字の特性のこと 日本語のこと

生活

 漢字は、単なる亀甲文字や表意文字から多くの人々の思いや願いを汲みとり、生命を与えられ大河の堆土のようになって、人の魂を培ってきたことだろう。

始皇帝の時代に漢字の統一がなされ、いよいよ人と人との関わりを発展させてきたことだろう。この時代の文字は、篆書(てんしょ)体といわれるもので落款(雅号などと一緒に用いる印鑑)に彫るときに使われる象形文字である。

 

日本語は、もともと文字よりも言葉という音が言霊という言い方で尊ばれていた。だから、大陸から漢字を導入した後に、日本語本来の音と大陸の文字をつき合わせて逐一意味づけをしたに違いない。

仮名は、漢字から派生している文字だが一文字だけでは意味を成さぬ場合が多い。しかし、正確に読み方を伝えることによって、漢字が読めぬ人にも意味を伝えることができるという大きな機能を持っている。この点、大陸の文字や西洋の文字と大きな違いがある。たとえば、アルファベットを用いる場合、文字の綴り全体で意味を成すのであって、日本語の例として「机」は、漢字を知らぬ者にも「つくえ」の3文字を知っていれば、第三者に確実に伝達できる長所がある。他方、これに対応する英語の「Desk」は、文字の綴りが間違っていれば意味が全く伝わらなくなる。

ところで、送り仮名がひとつ足らないだけで、正反対の意味になるような文字がある。例えてあげれば、「祟める」と「祟る」である。

「崇める」は「あがめる」である。「祟る」は「たたる」である。「崇める」は、能動的で敬うということばに近い意味がある。「祟る」は、蒙るということばのように受動的な意味合いが強くなるようである。送り仮名が、ひとつ抜けるだけで、まったく意味が異なり真逆のような印象さえ持ってしまう。



さて、墨の書文化が盛んな日本であるが、画のほうは書に比していまひとつである。書は、象形文字であるから画を発展させたというべきかどうかを別にしても、全く別に扱うことに違和感を覚える。中国では、書と画と篆刻は一体化しており、美術大学に学ぶ人は、これらをひととおり学ぶこととなる。日本では、書をたいていの場合、文学部の国文科や中国文化学科あたりで学び、画は、美術大学の日本画の一授業で学ぶ程度である。篆刻については、篆書体を

体系的に教育機関で学べるかどうかという程度である。本来の文化的体系からすれば、読める字は書けて、また因む画を描けて、篆書体を彫れるということであるべきであろう。物事を細分化させるとかえって、文化の発展を阻害させるような気がしてならない。漢字にお世話になっているこの国で、書道の体験は義務ではなく、国語の一授業で扱う程度でしかない。文化の後退ではないだろうか。かつて、大陸から経典を持ち帰った人々は、命がけで海を渡ったというのに。残念でならない。

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