粽を食し、茶を啜る

生活

  春の行楽シーズンたけなわである。やがて、立春から数えて八十八夜を過ぎれば、確かに自然の摂理に従い、汗ばむ夏の陽気がやってくる。一年で一番、万人にとって心地の良い季節かもしれない。

ところで、この時節は子供ころから楽しみにしている味がある。例えば「粽」である。もち米をつかった食べ物が好きな理由は、幼少のみぎり育ててくれた祖母が、そうだったからに違いない。「粽」のように蒸して食するもち米は、甘味旨みがあって幸せな気持ちにさせてくれる。祖母が、常にもち米を籾や乾燥させて細かく砕いた粉末にして保存していてくれたこともあり、団子や砂糖と混ぜて作る菓子など良く食する事が出来た。端午の節句には、柏餅も綺麗な柏の葉に包んで作ってくれた。つきたての餅や餡の甘い匂いは、今でも、鼻先にあるかのように思い出せる。祖母の手間を惜しまない姿が、今も私の味覚を支配する。

かような和菓子類は、新茶を啜りながらいただくのが、この時分の特権である。ところで、中国出身の友人に言われて気がついたことがある。古来、中国では、茶は啜るものであって、街に溢れる「喫茶店」が良い例で、日本人が茶を飲んだり食べたりということをする文化を不思議に思う中国人が多いとのこと。たしかに中国の漢詩には、「茗を啜る」というような言い方があるが、「飲む」や「喫す」という言い方はない。

濃茶薄茶のことは横に置き、新茶を味わう場合のこと。

本来、新茶は最初に「芽茶」を味わうべきである。あたらしい茶だからこそ芽茶が美味しい。次に入れる茶に湯を注いで味わえば、苦味が出てくるがこれを味わえなければ、大人にはなかなかなれない。だから、違いが分からない、分別できないことを「芽茶苦茶」(めちゃくちゃ)という。それは、漢詩を読んでいて窺い知ったことだった。日本茶は、茶の葉を蒸したり、煎るが、中国茶は芽を摘む茶であり、それを蒸したり煎り製茶する。

 

さて、緑陰涼しき時分、「粽」を食しながら、中国の詩人「屈原」を思い出す。

「粽」が、生まれた背景には諸説あるが、自分は「屈原」に供えたという説を信じている。その昔、中国の古き時代、中原の覇権をめぐって諸侯が争い、世が乱れた。屈原は、高邁な思想で衆生らの暮らしの行く末を案じ、為政者に真剣に正論を唱えたが容れられなかった。心底、真剣に考え苦悶し、努力をしたのだとは思うが、時代や運命が彼に味方しなかった。彼は、失意のうちに入水してしまう。粽は、屈原を慰めようと民たちが、入水した湖に鎮めて供えたものだという。敗れた人生と屈原はいうだろうが、後の時代にも敬愛された屈原は幸いだと言えるかもしれない。それにしても民たちの優しさがうれしい。

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