100年前の日本が、朝鮮半島

生活

 このところ、とくに韓国大統領の対日外交政策が険しく、韓国国内外で議論が激しく交わされている。他方、日本国内でも在日韓国朝鮮人に度を越した攻撃をする集団が現れ、一般市民を巻き込んでコリアンタウンに緊張関係が生まれている。

かようなときだからこそ、100年前の朝鮮半島を臨んだ日本を振り返ってみたい。100年前の東京には、初の西洋式公園として日比谷公園が誕生したころである。桂太郎内閣の頃であり、西暦1900年代という時代は、日本が岐路に立っていた時代である。このとき、日本は韓国に対する地政学的な研究などをさかんに行っていた。理由は、日本にとって歴史上、朝鮮半島の安定がとても非常に重要だったからである。

 

中国は、王朝の連続であって中国という言い方は、第二次世界大戦後のものだと考えるべきである。この時代中国は、清という王朝であった。歴史的には日本への脅威は朝鮮半島を渡ってきていた。朝鮮半島が、平和で安定しないと日本が安定(独立が保てない)しないということであって、当時の日本のリーダーたちは朝鮮半島の権益をいっそのこと押さえてしまおうと考えた。そのための清との戦争であったと考えるべきである。いわゆる日清戦争のことである。日本は、戦争に勝つことは勝ったが、やっとのこと勝てたという首の皮一枚の勝利であった。賠償金と領地割譲で台湾を得ることになった。この時代の列強たちは、植民地支配するときは搾取するばかりで何もしなかった。日本は、これとは決定的に違って人材と資本を投下して台湾を近代化しました。台湾を殖産新興したのである。

さて、ロシアに目を転じたい。ロシアは大変寒い国である。冬になると港が凍ってしまい閉じ込められたような状態になる。閉じ込められると漁はもちろんのこと通商もできない。したがって、歴史上長期に南下政策を行い、不凍港を得ようとする戦略を立ててきた。息の長い戦略は、ロシア人の中に南下政策のDNAが恰もあるような印象を与る。日本が、清に戦勝し朝鮮半島を支配下に置いたとき、ロシアも南下して鴨緑江(朝鮮とロシアの国境の川)の対岸まで進出してきており、日露戦争が避けられない状況になった。日露戦争も首の皮一枚で勝つには勝ったが、その後、軍部の暴走に歯止めが利かなくなった。

 

ところで、日本は第二次世界大戦で敗戦の憂き目にあった。負けた国は、巨額の賠償金を支払わねばならない。日本は、敗戦時本当に貧しかったので支払うことができずに「人材を教育して返すという賠償留学生」の受け入れをした。

このことを考えても相互理解に留学生の受け入れは大変に有効だといえよう。

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